駄文

2011年11月 1日 (火)

“駄文 14”

“「自殺は本当に悪いこと?」 (ニコニコニュース)”

『「自殺は本当に悪いこと?」と思えない。』が半数以上ある っていうコトは、生きてて希望がないとか、将来に見通しが無いとか っていうことですものね。

尚且つ、同調圧力とかあったり、上から横からなにかしらの理不尽な要求があったりとか(要求してるほうはフツー)。

まぁ、どうせ、その人が生きてる社会の中で 使い物にならなくなったら、勝手に“使い物にならない状態”になったら自然淘汰されていって、その人が生きてた社会 に居れなくなってしまいますものね。
使い捨ての社会なんですから、都合のいいものが無(亡)くなったら、また新しい使えるものを用意するだけですもの。そうやって使うほうが“仕えるもの”だけを交換していくだけですから。

だから、『誰が悪いなんて言うの』かと。
経済的にマイナスになるとか、日本の人口が減っていってるからとか、“悪い”理由って大局的なものじゃないの。
死ぬとお金かかるなら、葬式あげなきゃいいだけでしょう。

『誰かが悲しむから』とかも、そんなこと考えられないくらに 追い込まれてるでしょうし。
そんな誰かが悲しむことよりも、現実生きるのがツラいっていう比重が大きいんでしょう。

で、そんな“現実がツラい状態”が、“仕方がない”としてるからこそ何も変わらないワケで。

お金が無いから増税します に対しても、仕方がないから受け容れるんじゃなくて、諦めてるんだと思うし。
それを受け容れられてると勘違いするし。

で、耐えて、真面目に考えた結果でしょう。枠組みから外れられなくて、自殺を選ぶのは。
生まれてから 生存の競争社会の中に放り込まれて、比較の思考に陥って不幸を感じたり、誰かの憐れなヤツをやさしさで見下して幸福感を得たり。


『生きてれば良いことがあるよ』…なんて心から思えないから、別に『自殺を悪いこと』だと断定できないものね。

と、いうか“生きること”自体が 利害で判別してるんですよね。少なくともそれを超えた関係が人間観に自然と備わっていかないと 難しい話だと思うんですよね。

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2011年10月22日 (土)

“1.96”

夫婦の子供1・96人に減少、初めて2人下回る
産経新聞 10月21日(金)10時38分配信

 国立社会保障・人口問題研究所の平成22年の出生動向基本調査で、夫婦が生涯にもうける平均の子供の数(完結出生児数)が1・96人となり、原則5年おきに行われる同調査で初めて2人を下回ったことが21日、明らかになった。同研究所は「男女の晩婚化が進んでいることや夫婦の出生意欲の低下が影響した」と分析している。

 未婚者も含まれる合計特殊出生率(1人の女性が生涯に出産する子供の推計値)は昭和50年から2を下回り続けており、平成22年は1・39。一方、夫婦の完結出生児数は、昭和37年から前回調査の平成17年まで40年以上にわたって2人台を維持していた。

 今回の調査結果は「結婚した夫婦は平均2人以上の子供をもうける」という、これまでの傾向を覆したことになり、日本の今後の少子化対策にも影響を与えそうだ。

 調査は昨年6月、妻が50歳未満の夫婦9050組を対象に実施。有効回答があった7847組のうち、初婚同士の夫婦6705組について集計した。

 その結果、結婚生活を15~19年続けている夫婦の完結出生児数は平均1・96人で過去最低を記録。子供の数が1人か、子供のいない夫婦は22・3%にのぼり、初めて2割を超えた。

 夫婦が理想とする子供の平均は2・42人。実際に予定している数は2・07人で、ともに過去最低だった。予定する子供の数が理想を下回る理由は「子育てや教育にお金がかかりすぎるから」が最多で60・4%。「高年齢で生むのはいやだから」という回答も35・1%あり、30代以上では年齢・身体的理由を選ぶケースが多かった。

 過去5年間に結婚したカップルの平均初婚年齢は、前回調査から夫婦ともに上昇。夫は0・7歳上回る29・8歳、妻は1・1歳上回って28・5歳だった。


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(以上 ニュース記事より。)


まぁー、別に世界では人口爆発してるんだから いいんじゃないのー。(投げてる)

というか、子どもが欲しい人にはなかなか出来なくて、生まれてくるところでは虐待とか置き去りとかあったりするワケで。

なにより、子どもを授かっても、お金が無いという話だし。
世帯年収が500万あるとこなんてどれだけあるの? って話だし。

女性の雇用機会が増えたのは結構かもしれないけど、それで晩婚化も進むし、適齢期も過ぎていくし。卵子の数にも関わるし。

不妊の検査や治療をした夫婦が2010年で16%あったとか言うし。

まぁ、当然男性側にも一因はあるのかもしれないけど、ストレスとかもあって健康的な身体を保ってもいられないでしょうし。
で、その不妊治療費とかも何百万だかお金はかかるワケだし。


で、原発の問題もよく分からないままで、子どもに甲状腺が云々もどういうことやら。


同じ日にニュースでは日本の借金は1000兆円とかって言うし。

雇用も安定しない、収入も上がらない。

老後に独り身は寂しいとか言うけど、寂しさを紛らわせるために結婚するの?
子どもに老後の面倒をみてもらうために子ども生んでおくの?

子どもに国の借金や よく分からない年金の支払いを続けさせて。

希望は無いわな。

理屈抜きで好きなら結婚すれば?的な考えもありますが、理性的に考えてお金無かったら無理でしょ? っていう。
盲目的に好きになっていられる時なんてそう続かないでしょう。

離婚してる主婦の方と多く話したりもしましたけど。
先のことなんて考えれば分かることなのにね。



自殺者毎年3万人のこの暗澹とした日本に明るい兆しなど無いし。
そんな国・社会に自分の大切な子どもを育てたいとも思えないでしょうし。

仮に お金があっても子どもを育てたいなんて社会でも無いしな。

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2011年10月10日 (月)

“【諸富 祥彦】 : 『人生に意味はあるか』読了。”

諸富 祥彦 著、『人生に意味はあるか (講談社現代新書)』を読みました。


私が好きな漫画家さん、夜麻みゆき先生がこの本を読んでらしたので、私も購入しました。
…ちなみに、“100分de名著”を最近見始めたのもこの影響。

ニーチェの特集は第4回しか 間に合わなくて見れなかったんですが。

本書の感想といえるのかどうなのか分からないのを書いていきますが……。


先ず、この本において、色々な立場からの『人生の意味とは』、『生きる意味とは』みたいなものの答えをたくさん示されてあること自体に 参考になりましたね。

学生の考え、
色々な、文学作家、
宗教的な立場から、
哲学的な立場から、
スピリチュアルな立場から、

そして著者である諸富氏の考えまでを。

ありがちなのが、『“意味”を探すことに“意義”がある』から生きなければならない とかね。
…まぁ、私にしてみたら てんで役に立たないんですけど……。




そもそもね、こういう、『なんで生きるのか』みたいなものを考えてしまうとき っていうのは、苦難や苦労が耐えない状態・状況が続くからこそなんですよ。
あとは、今 良い状況下であっても、過去の悪い状況を体験してるがゆえに、『どうせこんな暮らしがいつまで続くか分からない』なんて思ってしまったりね。

『生きる意味を探すために生きている』のが、苦痛なくらいだから、生きていたくない んですよ。

もうね、探すのも面倒くさいんですよ。
生きる意味を求めて生きる中で、また苦難にぶち当たるワケですよ。
うんざりですよねぇ。



スピリチュアルについてですが、
まぁ、その前に、どんな宗教、宗派であろうと、なんで多くの人は『輪廻転生』というか、人は生まれ変わるみたいなことを漠然と“分かってる”んでしょうかね。
ちょっと前の江原さんブームとか関係ないと思うんですけどね。これに関しては。

しかしまぁ、スピリチュアルに関しては神秘体験がベースになっているもので、こういうのは体験・体感した上でないと分からないんですよね。
仮に、本書で紹介されているスピリチュアルな方々が、実際の体験に基づいた上での説得力を以って生きる意味を伝えてるとしても、それが 伝えられた聴き手にしてみたら体験してないワケですから腑に落ちない部分はありますよね。

もし、スピリチュアルなものが体験できたりしたら、それは 納得のいくことだとは思いますけどね。

ちなみにまぁ、私も過去に結構 江原さんの本とか読んできましたし。バシャールとかも好きなんですけど、今は距離を置いて考え中。
なにより生きる意味を問われて、江原さんが『生き抜くことに意味がある』と言うのはともかく、江原さんの考えに影響を受けてる方が 生きる意味を問われて、同じように答えてるだけなのが微妙ですよね。



哲学の立場ですが、私にしてみたらこれは最近なんですけどね。
ニーチェの考えに触れたのが。

ニヒリズム。一切に意味は無い。虚無感。というのは非常~に共感してしまいましたよ。
で、ニーチェの言う、至福の瞬間,至福の体験というのがあれば人生を肯定できる …ということですが、それがあれば生きていける とありましたけど、

それがあるからこそ 虚無感を感じるんですよね。

祭りのあとの日常が とても寂しく感じるように。
なにより祭り…というか、特別に楽しい出来事よりも、つまんない日常の方が長く続くワケです。
(というか同じ項の宮台さんのくだりで、(P.102) 強い刺激のあとには空虚感に包まれる ってありましたけど、その刺激の強さなんていうのも感じ方次第ですからね。)
その、楽しいことの為に頑張るんだけど、その時点で、楽しいことよりもその先の、“さらに楽しいことのために 頑 張 ら な く て は な ら な い 日 常 ”が目に入ってしまって、まさに永遠回帰。幸福も苦難もループするのが見えてしまうのね。

その絶え間ない苦労の日々に、幸福という刺激の…快楽のドーピングを恒常的に・無意識に与え続け、延々と走り続ける。
にんじんをぶら下げた馬のように。

…―――だから 生きる意味は 無い。と思ってしまうんですよ。




ビクトール・フランクルの考えについては初めて知りました。
でもこれは、“意味”の問いの立て方が、分からないと 解釈を間違ってしまってちょっと困りますが。

その、瞬間瞬間に意味はあって、普遍的な意味は無い というのはまだ分かりますけどね。
でも、それを俯瞰で考えてしまうと、世の中は無常で、うつりかわり、“私”が過去に確立した誰かのためへの意味が、その誰かにとっては意味が移り変わって“私”にとっての意味を為さないものになってしまうのでは とも考えたり。

久しく会う、家族や友人と、どこかぎこちなく合うハズのものだったものが変わってしまってたり。嗜好や思考が変化してしまってたりとかね。

P.170の老夫婦の話に関しては ちょっと納得するところもありましたが…。



しかし、
『“私”のことなんて誰も必要としていない。』とは思ってしまいますよ。
世界は“私”とは無関係に回り、“私”が無くても必ずどこかで埋め合わせが生じて、そして忘れ去られて回り続ける。


というか、P.25でフランクルの言葉を紹介して、それが許せないとした患者さんの言葉がありましたけど、フランクルの考えも納得いかないですもの。

このP.25の「」で括られた言葉の部分、ホンッットに共感しますよ。(まぁ、私はそこまで辛い体験はしてませんが。想像に難くないですよ。)

待ってる誰か とか、どんなときも意味がある とするならば、虐げられ利用されてくれることを向こうは期待していて、価値を蹂躙されることに意味がある ってワケですか。なんという皮肉。





で、著者の諸富氏の生きる意味に関しては、7年かけた上での、神秘体験みたいなものでこれまた納得いかず。そして『いのちが 私している』という点ですが、
これ、生きる意味とか 人生の意味とか っていうよりか、命の在り方になってるんですよね。
ただ、これは過去にアルボムッレ・スマナサーラ氏の本を読んでても思ったことですが。
(というか、親鸞とかには触れてたけど、その源流の仏教に関しての生きる意味の視点は書かれてなかったですね…。)
(同じく、『自我の破れ』という言葉を本書では使ってましたけど、ブッダ視点では『“自我”があらゆる問題の根源なのだ』とあるので、これもこの書籍としては不透明な部分ですよね。(当ブログの、『100分de名著・ブッダ真理のことば』や、『アルボムッレ・スマナサーラ氏の著書を読んだ』関連で参照できるかと。))
(というか、自我を破りなさい ってコトか? (P.228から。))


命の在り方 に関しては、ある意味で 突き詰めきらないと腑に落ちない…というか、腑に落ちるときがくるんでしょうかねぇ。




総じてですが、
『自分で見つけ出さなくてはなりません』
ですよね。

一個一個、疑問をぶつけ続けてきましたが、全く納得いっておりません。

一切全てに意味は無い と思っています。

むしろ意味づけすること自体がナンセンスなのかもしれませんが、
そうでなければ不都合な出来事や不幸が訪れたときに、嘆き悲しんだり、怒ったりすることも無いハズですから。

好都合な出来事や“幸福”、“受容”などは、理由もなく受け入れて、そうでない出来事には納得いかないから、腹が立つから、受け容れたくない・意味が分からないから反発したくなる(怒りたくなる)もので。

(ま、私の場合、好都合な・幸福な出来事や、受け容れられてることにも疑問を持ってしまったので、非常に引き返せない思考になっておりますが。。。)

人生や未来というものが、全く光が見えないからこそ、考え尽くしたいと思います。
(としか今は言えないです。)

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2011年9月11日 (日)

“2011.09.11.”

東日本大震災から半年、アメリカ同時多発テロから10年。
というコトで。

NHKでも昨日・今日とかずーっとドキュメントやってたりしてね。
流し見してるつもりが見入ってしまったりして。

同時多発テロに関しては…まぁ、10年前というコトもあって、特に覚えてないというか…、私自身個人としては、特に困難も何も無い時期で、すごく平和だったような気がするんですよね。

だからアメリカでの大規模なテロ…飛行機がビルに突っ込むなんて映像はもはやファンタジーでしか無いような印象でしたね。
そのファンタジーの中で、多くの人が犠牲になってたワケですけどね。。。
衝撃ですよ。現実は小説より奇なり。ですよ。

ニコ動に、2001年の9月11日の西川貴教のオールナイトニッポンが上がってたのを聞いたのですが、それを聞いても当時の衝撃が思い出されるというか。

で、その後の報復に報復が続く連鎖とかね。

最近のドキュメント番組ではリビア、エジプトでのデモも合わせて紹介されたりしてましたけど。。。。。




東日本大震災から半年、という点についてはまだ見えない部分が多いですね。
まぁ、多くは原発についてのコトですけど。
エネルギー政策も絡めた、原発の運転の今後についてが不透明なこととかね。

あとは収穫された食品の問題とかね。
福島の子どもたちに地産地消させてて良いのかねぇ。

お米とかでも、そろそろ新米が流通する時期なんだけど、あまり…。
っていうか古米のほうがよく売れてたりとか、関東より西で収穫されたものが東のほうへ流れてよく売れてたりで原価が上がってるとか?
東北で収穫された昨年のお米ですら「大丈夫なの?」と心配される方もみえるようですからねぇ。
海産物でも、東北の漁港で水揚げされたものについてニュースで見たりしましたけど、その魚は大丈夫なんだろうかとかね。
(つか魚に関しては『どこどこ産』っていうのがなんともアテにならないとゆーか…。)


見た目の町並みの復興は進むのかもしれないけど…進んでいるのかもしれないけど。
瓦礫の除去とかはね。

けどそこからの再興とか。
(再興というよりか、ゼロからまた立ち上げるというほうが正しい?のだろうか。。)
放射性物質の除去とかね。そこはまだまだなのでしょうか。

今、NHKのニュースで、復興の道筋 依然見えず ってやってたけど。。。

あと、人の心の問題も。
安心したころにメンタルが崩れる っていうコトもあるけど。
というか、そういう心の問題って個人差があるから、前を向こう ってなかなか思える人と思えない人といるからね。


この前の近畿地方での豪雨による自然災害もそうだけどね。




で、
テロから10年とか、震災から半年とかってコトで、その過去の出来事による心の傷を、どう前向きに付き合っていけるんだろうか。

…というのが最近の疑問。

顕著なのが同時多発テロで、報復を繰り返してることについてで。
いつ、これを『許す』(赦す?)ときが来るんだろう? っていうね。

「歴史の必然」とか言ったってね、被害に遭った人はたまったもんじゃ無いワケですよ。

津波・原発の被害にしてもそうですが、こういう自然災害の被害に遭うコトは『仕方がない』ことなんでしょうかね。

運命だとでも?

これをどう受け留められるんだろうか。
『過去の教訓』がアテにならないというのに、どう“糧”にしていけるのか。

時間が過去を緩和してくれるのを待つ…、時間が解決してくれるのを待つ…
…っていうのは あまりにも……。


…最近、ニーチェやブッダの考えに触れてるから 尚、思うんですけどね。
……。これは これからゆっくり考えていきます。

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2011年9月 6日 (火)

“【100分de名著 ニーチェ・ツァラトゥストラ】 : 『第4回 現代に超人は可能か?』を見た。”

100分de名著、ニーチェ、ツァラトゥストラ 『第4回 現代に超人は可能か?』を見ました。

1~3回までは見てなかったんですが、今回初めて見ました。

MC:堀尾正明、瀧口友里奈
講師:西 研
ゲスト:斉藤 環

以下、番組内容を大体テキスト化。↓



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19世紀 ドイツの哲学者ニーチェ。
当時のヨーロッパの価値観を根底から疑い、人間の生きる意味を問い続けた思想家。

ニーチェは主人公『ツァラトゥストラ』を通して自らの思想を説きました。
『神は死んだ』
ツァラトゥストラはキリスト教に基づいた価値観が崩壊していることを人々に知らせます。そしてこれまでの価値観に頼ることなく 創造的に生きる存在……―――“超人”を理想としたのです。
超人になるための最大の関門 それは、苦しみも含め 同じ人生が何度でも巡ってくるという、“永遠回帰”を受け入れることでした。

ニーチェは人間が生を肯定するにはどうすればよいかを徹底的に考えぬきました。


西研:「第1回から第3回まではツァラトゥストラの物語と、そこに込められたニーチェの哲学を読み解いてきたんですけども、今日はですね 現代を生きる私たちに、このツァラトゥストラの思想がどう役立つか ということを今日はテーマにしていきます。」



スイスのシルス マリヤにニーチェハウス(ニーチェ記念館)がある。ニーチェが滞在して執筆した部屋がある。
ツァラトゥストラは当時 人々の理解を超える内容から、ほとんど見向きもされない書でした。最終巻に至っては、わずか40部ほどニーチェが自費出版しただけだったといいます。

その後ニーチェは精神を病み、思想家としての活動が全く出来なくなります。
 
病に倒れた晩年から20世紀にかけて、ニーチェの思想は次第に認められるようになります。
19世紀の古い価値観を打破したいと考えたヨーロッパの新しい知識人が、ニーチェに共鳴し始めたのです。
ところが1930年代になると、ナチスによってニーチェの思想が歪められました。“強者が弱者を支配することを肯定する思想”と誤って解釈がされ、ユダヤ人迫害の正当化に利用されたのです。

第2次大戦後、ニーチェに再び光が当てられます。
近代の価値を転換する思想として、特にフランスの哲学者や批評家などに注目され、
《脱構築、蕩尽(とうじん)の哲学、ポスト・モダンの哲学、存在論》
戦後の新たな思想の源流となったのです。


 
【現代の私たちの生き方に ニーチェの考えをどう活かしていくか。】

堀尾:「斉藤さんは ツァラトゥストラという本、どのように捉えてらっしゃいますか?」
斉藤:「学生時代に手に取ったのですが、学生時代というのはひねくれたところがありまして…。アポロン的な 理性的な哲学じゃなくて、もうちょっと享楽的なところというか…いわゆるディオニソス的なというか。そういうところに魅力を感じたというカタチで入っていきました。」

アポロン的…理性的、論理的

堀尾:「人間的に物事を考えよう―――…っていうのが…」

ディオニソス的…感情的、享楽的
 
斉藤:「そういったものを享楽的に捉えるといった…
    ニーチェは晩年 精神を病んだりとかですね、ちょっとこう狂気を孕んだところが…まぁ、まだ…免責の余地から… ちょっとこう ニュアンスを感じる あとづけかもしれませんが。
    そういうのに我々は惹かれてしまう という困った性癖がありまして。(笑)  狂気に至るまでの天才と紙一重というかですね、そういう発想で魅されてしまうというのがたぶんあったと思いますね。」

堀尾:「斉藤さんがツァラトゥストラの中から、これぞ名文!というものを―――。」

斉藤:「“末人(まつじん)”という…“ラストマン”という人々にかかわるものの描写が――…。」


 われわれは幸福を発明した―――
 「末人」はそう言ってまばたきをする。
 彼らは生きるのにつらかった土地を去った。
 ぬくもりが必要だからである。
 さらに彼らは隣人を愛し、隣人に体をこすりつける。
 ぬくもりが必要だからである。
                  「ツァラトゥストラの序説」より

斉藤:「先ず 非常に毒のある表現といいますか――…。
    まず“まばたき”をするとかですね――いかにも動物的というかですね、小人物というかですね…、すごく軽蔑される存在という印象を与えてくれてますね。単なる快感ですね。 緊張を解放するだけの――リラックスをひたすら目指すという。
    “ぬくもり”と書いてあっても 決していい意味ではなくて、単純にこう ゆるい世界でね、まったりと生きたいというですね。そこだけ聞くとといいように聞こえますけど、まぁ、超人のように自分を鍛えていくような、きっかけはそこには無いわけですよね。」

堀尾:「これは今の世の中と通じると感じるところはありますか?」
斉藤:「うん。 やっぱりある種の予言の書というか、やっぱ今の人の一部の人ですけどね。在り方が限りなく末人的なライフスタイルに近づきつつあるんではないかと。」

堀尾:「先生、当時からこの末人のくだりというのは好きだったんですか?」
斉藤:「これを好きというと誤解を招くおそれも…(笑)」
堀尾:「好きというか 気になったというか…。」
斉藤:「なんというより、まず自分のことを言われてる感じというか。おれはいずれこうなっちゃうんじゃないか、っていう そういう懸念を一番青春期に感じました。」
堀尾:「当時の学生はそうやって読んだのかもしれませんね。」
斉藤:「そうかもしれませんね。」

【それぞれの”超人”論】

堀尾:「“超人”という思想、お2人にとって超人とはどういうことなのか。」

西研:「超人というのは、究極ポジティブな存在ですよね。常にクリエイティブに生きていく。ルサンチマン(恨み、妬み、嫉妬の感情)なんか関係ないっていう。そういう存在ですよね。
    超人を目指す ってニーチェは言うんだけど、ぼくはねぇ、あの、よろこびの方向に向かっていけ、とか、高めあっていけ というメッセージはすごくいいと思ってるの。でもニーチェの書き方は、一人で頑張れみたいなところがあるんですよ。うん。一人でがんばって強くなる。ストイック。
    でも、人が本当にクリエイティブになるときってどうなんだろう。ニーチェの言うクリエイティブですよね。 それってお互いが自分の感情を出して、それをちゃんと受け取った とか、ちゃんと返ってくる そういう信頼があるところで、クリエイティブというのはものすごく出てくると思うんですよ。
    たとえば まぁ、古い話だけど、ビートルズのジョン・レノンとポール・マッカートニーが曲作ってるときに、も-最高だった ってこと言ってるんだけど、お互いの間でどんどん響いてね。コールアンドレスポンス。 こっちが呼べば向こうが応える。そう 刺激し合って ガーっと高まっていく。そういうところにね。超人のほんとの具体的な形があるような気がするんですね。
    だから お互いの感情をちゃんと交換し合うとか、そういうつながりの中で超人を目指す。うん まぁ、言わばしなやかな超人。そういうイメージを持ってた方がいいような気がします。」

     “しなやかな超人”を目指せ



斉藤:「あの、私は専門がひきこもりなんですけども、私は超人というのは完璧なひきこもりのことだと思います。ちょっと西先生の真逆みたいな感じになっちゃうんですけど。
    ひきこもり ってのは仕事もしないし、人間関係も無いし、業績も無いし。そういう自分を全肯定できるかどうか と、そこが超人の非常に重要な条件なんじゃないかと。」

瀧口:「ひきこもりの状態で良い っていうことなんですか?」
斉藤:「そうです。 そのひきこもってる自分を、いかなる価値基準に照らさないで肯定できるかと。無根拠に肯定できること。」

瀧口:「なんか、仙人みたいなイメージが今ちょっと浮かんできたんですけども…。」
斉藤:「そうです。禅僧とか 仙人とか。」

西研:「ニーチェの思想のすごくいいところに、どんな自分が その失敗しちゃっても、その自分を絶対見捨てちゃダメなんだ。そういうこと言うんだよね。
    やっぱり自分が自分の最大の味方で、そこを肯定できなきゃいけない思想ってニーチェの中にありますよね。」

斉藤:「ただ 普段若い患者さんを中心にですね、接してて思うのは、ま それこそ ニヒリズム(「すべてのものは無価値である」とする考え方)じゃないですけども、否定が力を持ちすぎている。いじめにしても、ニートにしても、いわゆるロストジェネレーションと呼ばれる、まぁ、ワーキングプアなんかも含まれてますけどね。若い世代の…まぁ、意識の中にですね、肯定をする力が弱まっている気がするんですよね。   すごく危険……危惧しているところなんですよね。そういうとき この、とりあえず、自分を力強く肯定するところから始めよう という考えは、 すごく意味があると思いますし、臨床をやっていても……ま、人間関係でもいいですけど、何かちょっとしたキッカケでも自分を肯定することが出来るとですね、こもってた人が動き出す ってのはよくあることなんですよね。
    肯定感が最初にあると、医学的に考えてもですね、それが次の展開に繋がるという実例はいっぱい経験してきましたのでね。  なんとかそれを持ってほしいな と。願望も込めてですね。“究極超人”―――…。

    結局ですね、ひきこもってる人が抜けられないのは世間体を気にしたりだとか、世間のものさしに縛られてるから出れないんですよ。」

瀧口:「今、問題になってる ひきこもりというのは、自分自身を 自分のものさしで評価できないところが一つ問題に――…」
斉藤:「まさに仰るとおりで。社会的な基準だけに依存しているので、自分をどうしても肯定できないんですよね。ずーっと自分を否定しながら毎日を過ごしている。とても苦しいわけですよ。
    逆に 全部肯定できた瞬間に、自由になるんですよ。パラドックスなんですよね。それこそツァラトゥストラが山から下りたみたいに。肯定が完成したら こもってられなくなっちゃうんですよ。結果的に。」

堀尾:「多くの人と交わる ってことも、できるようになるわけですか?」
斉藤:「できちゃうわけです。しようと思ってするわけじゃないんですけど、ま、自然ななりゆきでそういうふうになってしまうというか。」

西研:「斉藤さんどうなんでしょう。世間の基準から自分を見てることで 苦しいし、外にも出られないけど、じゃあ 自分自身のありのままをね 全部肯定するためには――、実は「アンタそれでいいよ」と言ってくれる誰かがいらないと思うんですけど。どうです?」
堀尾:「それは精神科医の仕事なんじゃないですか?」
斉藤:「やー、我々が肯定しても、それは仕事になっちゃうんで――。なかなかそれを素直に受けてもらえなくなるんですけど。
    やっぱ承認の問題は大きいわけで。みんなが承認を求める時代になっているとも言えますから。承認してもらえて肯定する。という生き方が普通なんですけども、ここは敢えてニーチェ的に、 承認抜きで自分を肯定せよ。と。言いたいところなんですよね。とりあえず とっかかりとして です。


    “承認抜きで 自分を全肯定せよ。”




【ニーチェ 人生相談室】

瀧口:「あのー、私 今 大学生なんですけど、今 就職氷河期って言われてると思うんですけど、でも、それでも大企業に行きたい って人がすごく多いんですね。中小企業でももちろん魅力的なところ あると思うんですけど、やっぱり安定性とか、お金の面とかもあって、大企業に集中してしまって、それがさらに 就職氷河期を加速させてるんじゃないかって感覚もあるんですけど。   自分が本当にやりたいこと っていう――ニーチェの言う超人のように、今 こういうことがやりたいんだ って内側から溢れてくるようなものっていうのを、みんな見つけきれてない…なかなか。
    っていうのと、どうやったらそれを見つけて、こう“超人”みたいになっていけるのかな、 っていうところがあれば―――…。」


斉藤:「就活も婚活もそうなんですけど、どうしても比較の発想になっちゃうんですよね。こっちよりも こっちが大きいという。 こっちが安定している。福利厚生がいいとかですね。比較の話ばかりしていると、私は”末人”的になっていくというか。どっかしらで自分が置き去りになってしまう感じがするんですよね。
    で、精神科医として言うんですけも、精神分析的には、まぁ、人の正しい生き方というのがあってですね。それは何かっていうと、自分の欲望をあきあめないことなんですよ。最後まであきらめない。絶対譲歩しちゃいけないんですよ。これはもっとも正しいとされていて。
    ただ、一番難しいのはさっき瀧口さん仰ったように 何が欲しいか分からない というのが最大の難点なんですよね。すごく多い。だから自分探しは 自分の欲望探しで。結構難題なんですよ。    だけど、比較の発想をだんだん剥ぎ取ってですね、それをやめていけば、ひょっとしたらそれは見つかるんじゃないかと思ってるんですけど。
    やっぱり どっぷりと 受験のときからですね、その就職→結婚に至るまで、比較の発想に慣れすぎていると、欲望が逆に見えなくなってしまう懸念があるので、なんとかそこを一回リセットするようなですね、キッカケをですね 掴んでほしいなと思うんですけどね。」


西研:「ぼくもすごく共感ですね。
    やっぱり普通でなきゃいけないとかね、普通より もうちょっと良いほうがより良いでしょうけど、あの 根っこにあるのは「脱落したくない」っていう気持ちだと思うんですよ。「落っこちたくない」ね。
    世間並みのところから「損したくない」。そういうことばっか考えますよ。 それで就職――…だんだんうまくいかなくなったりすると、全世界から自分が否定されたような気持ちになってくるのね。わかりますよね 気持ちは。
    でも、ニーチェ的に言うとね、世間から評価される前に、どんなことやったら自分ワクワクするの? どれやったらオレ燃えられるかな? っていう、やっぱそこ考える必要があって。ぼくね、会社で自分のワクワクを実践するくらいに思わないとダメかもと思うわけ。それ理想論だけど。 でも やっぱり どうやったらワクワクできるの?っていうところから考え始めないと いけないと思うんですよね。」

瀧口:「「脱落したくない」っていうと、マイナスから始まっちゃう考え方になっちゃう―――…」
西研:「そうそうそう。その通り。」

堀尾:「ぼくね前回 ニーチェの『運命愛』っていうのを説明して下さったときに、要するにニーチェは 人生は全て運命であると。その運命を受け入れられれば、肯定できれば、こんなに喜びに満ちたものはない っていう考え方じゃないですか。   だからどんな障害があっても、それも運命で、それをプラスに考えられる っていうね。究極のプラス思考。 それから、今 たとえば ま、就職・受験に失敗した。それもプラスに導く何かがあるんだって思えれば すばらしいことですよね。」

斉藤:「肯定の考え方 いろいろありますけど、ぼくは 偶然を必然に感じられる才能だと思うんですよね。そういうキッカケとして ニーチェを読んでみるというのも いいかもしれませんね。」


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超 面白かったです。

たしかに、自己肯定感は、弱まっていると思います。
それは 安易に人と繋がることの出来るツールがあるから という、今の時代だからこそ、というのに限らないとも思いますが。

で、個人的に惹かれた言葉は、
『就活も婚活も、比較の発想』とかってくだりのところが。

そう、結局、ここなんですよ。“世間”とか“普通”とか“社会的”な…そんな価値観に無意識下で依存しているんじゃないか? ってコトがですよ。
でもね、仕事とか…そういうのは“誰か”の“社会的”な価値観に受け入れられてないと、成り立たないワケですよ。いや、勿論 そんなのは切り離して考えて然るべき…って視点もありますが、幼い頃から生存のレースに乗せられてる人間にとっては、生産と消費活動を行わないなんていうのは、社会から隔絶された存在でゴミ同然なんだって思えるんですよ。

社会の枠組みで生きることが、生きることを肯定する全財産みたいな考え方になってしまっていて、だから誰かに,何かに必要とされていないと、自分が肯定できてない。


これがあまりに多い。
というか、これが多分全てだと思うんです。
すべての生きてる人は。


若い人について 主にピックアップされてたような気がしますけど、私自身、色んな年代の方とお話しした経験からですが、そんなものは関係ないと思うので。


『自分の欲望をあきらめない』とありましたけど、これもね、それまでの、比較の世界の価値観がインストールされていて、たとえば、自分が何かを好きなことも、「多くの人がこれを好きだから好き」というのとか、また逆に「マイノリティだからこそ、好き」とか。その「『マイノリティが好き』なオレが好き」という考えもあったりとか。
自分の感情が、誰かの立脚した価値観に依存してるから構築されたんじゃないのか? とかをね。考えたりするんですよ。

で、西さんと斉藤さんは“しなやかな繋がり”とか、また“ひきこもり肯定”とかありましたけど、本質は全く同じだと思うのです。
西さんの場合は、他人と真ッ剣に関わること。(感情の交換をすること。お互いの思いを表出し合うこと。)で、斉藤さんの場合は、徹底して自分に向き合うことだと思うの。

結局それは“自分”の根源・源流を知るキッカケとなるのでしょう。

ただ、価値観の合う友人・知人となぁなぁな語り合いをするのでもなく。
ただ、自分の価値観を正当化するためだけに殻に篭って他人を否定してばかりでもなく。

(自分は自分で完璧で在るし、他人は他人で完璧で在るのだから。)

(けど、他人の完璧はなかなか認めたくない感情が出てきてしまうと思うけどね。それは自分の完璧を肯定しているからこそ なのかもしれないけど。…このあたりが難しいからこそ、おそらくナチスによって歪められた部分があるのかもしれませんけどね。『支配が正しい』という誤ったことがね。)

全ての価値観を解(ほど)いて、確立した自分を肯定すること。
これは難儀な道のりかもしれませんけどね…。

私自身としては、運命論みたいなものはまだ肯定できない、というか疑問なので。
マイナスな出来事自体をどう捉えるか という問題(不慮の出来事による死や、心身に大きな傷を負わせるような出来事)が起きたとき、これも“運命”だと、“必然”だと受け入れられるかどうか …というのは自信が無いですので。。。
永劫回帰が苦しみも含めての肯定だから、多分 “私”が苦しみや不都合を肯定出来てないのかな。被害者感情を持ちたい(自分の優位性“だけ”を常に考える)からかもしれないけど。
(…どうしても こういった場合『たられば』を考えてしまいますから。だからニヒリズムになってしまうと思うんですよ。全て無駄・無価値かと、ね。)

これを超えたら、“超人”に なれるんでしょうかねぇ。

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2011年8月29日 (月)

“駄文 13”

twitterにごちゃごちゃ書いたものを、こちらに転載してまとめ。



●ありのままを肯定する というコトと、個人の心の成長が大切 というダブルスタンダードの矛盾。

●価値観依存からの脱却とか、己を知ることの創造性とか面白すぎる。全てが無価値のニヒリズムに陥ったとしても、それに依存すること自体が“執着”している行為なので、それを壊す必要がある。仏教における輪廻転生も生まれ変わらないことが最終目的となるなら、今の生きる全ての流れを俯瞰で見るとか。

●ループ自体を肯定していく中で感じる、幸福や不幸自体に対しての違和感を、抱えたままにしておいた方が安心するのだろうか。というか肯定した時点でループの輪は変わるんじゃないのかな。気付かなかった“私”と、気付いた“私”に。それが“成長”というか“超人”への“進化”なら。



全てを肯定する、というコトは、成長というか、進化とかいうものも、自然のものとして在るのだろうか。

ルーティンな生活というのは、心にとって とても安心をもたらすもの というコトを名越先生は言ってらしたような気がした。

ところでこういうの、永劫回帰でも、輪廻転生でもどちらにしても、人の記憶というものはどう扱われるのだろう。
“気付いた”あとと、“気付く以前”の状態で異なると思うんだけど。
仮に、今、転生後の状態なり、永劫回帰のループの中にいたとしても、結局今までの生きることを 肯定できてなかった部分の(別に今も肯定できているワケでは無いですが)過去の私は肯定していなかったワケで。
ということは、過去、肯定することを忘れていた事実に気付いた時点で、過去を救っていることになるのか。

というか、どこまでが“自分の生(せい)”について、自覚的になれてるんだろう。


色んな出来事に対して、感情的な見識を持ってしまう時点で、既に刷り込みは始まっている。それ自体に対してすらも。


螺旋階段のような繰り返しというよりか、円が膨張しながら循環の輪が大きくなっているということか…。いや、刻まれている部分がコンスタントになっただけなのか。















………。ホントに駄文になったな…。思いついたものを箇条書きみたく。
ダラダラしてきたので今回はここまで。

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2011年8月15日 (月)

“2011.08.15.”

この前の、原爆の慰霊祭にも繋がるけれど、
2011.03.11.以降、 未だ、原発が落ち着いてないから震災中 って言われてるし。
同じ意味で 戦争中でもあるしで。

というか、震災が起こってなかったとしても、ある意味で戦争みたいな状態にはなってたコトでしょうけどねぇ。





『日本をひとつに!』
『がんばろう 日本!』

…とか言ってましたけど、てんでバラバラ。



雇用とか、自殺の問題とか…っていうか、それに至る根本の原因の解決とかが 全くなってなかったワケでさ。


うーん、まぁ、でもね、否が応にも不安というのは嫌悪の対象であるにも関わらず、抱えてしまいたいというジレンマもあるもので。

ちょっと前ならば SARSなんていうのもあったし、新型インフルエンザなんていうのもあったし。

不安を抱えて停滞するくらいなら、とっとと行動してしまう方がいいんですけどね。起きてしまったことを諦める(明らめる)くらいでさ。
ま、いつまでも真実を隠匿して、過度に不安を煽ったり、自分の利益追求だけ し続けてるようなのはダメだけどさ。明らかにしないとねぇ。

なにより、其処が ひとつ では無いから。

“本当”を曝け出すこと、弱さを見せること自体が強さでもあるように、覆い隠したり、真実を見せないことは親切という不信でもあるかも。

知識や智慧を共有する って大切なことじゃなかったけなぁ。


いつまでも同じ過ちを繰り返して、同じ犠牲をわざわざ払い続けるのは、もう そろそろ飽きればいいのに。

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2011年8月 1日 (月)

“アイデンティティー崩壊”

“私”を構築する“私”を守る必要が無くなった時、“私”は役目を終える。


思想も、習慣も、癖のように根付いた言動 一つ一つも。

“私”自身という存在が、何を為すべきために生まれ此処に在るのかというコトなど、誰も何も解りやしないもの。

既に生まれた時点から 在る環境に身を置き続ける以上、かくあるべき私 というものは、周りの環境に染まって育まれていく。

オリジナルだと思って得たものなど 無い。

全てのものが混濁し、構成されていく。
純粋は混ざり合ったエネルギーの塊なの。
純粋にひねくれて反発することも 合わせ鏡のように誰かを写した先に構成される。

何かのものに対し、常に、反論・反発することで“私”の意義を確立する。


これは違う。それは正しくない。あれは嫌い。
そういうのは“私”に似つかわしくないと思うの。

「じゃあ、あなたが好きなものは何?」
「わからない」



快楽と矜持の空間に身を置いて、楽しいから楽しいと感じ、好きでくれるなら好きなのと?



“私”の起源は何処にあるのだろうか。


役目を果たしているうちが華なのだろうか。
誰かの言う通りの物事をこなして。
誰かに与えられたものをただ頂くだけの日々を。
誰かから役割を果たすためだけに存在させられている“私”を尽き果たすまで。

それが終わり。





自分の中で、『これが“私”』だと断定してしまえば、そこから先の“私”はアイデンティティーに悩むことなく在り続けられる。
たとえ人格・性格的に自覚的に破綻していようとも。
たとえ周りの誰かに無自覚に迷惑を捧げ続けていられたとしても。
これが“私”なんだから、たとえ何があっても揺るがない。
……とでも?


この世の人 全てに役割が与えられていると仮定して。
この世の人 全てに生まれた意味・存在する役目が与えられているとして。


迷惑を蒙る役目。ひたすらに迷惑を与え続ける役目。

自分が我を通すことだけを善しとして在り続けることなど出来ない。


そこで殺す人も、殺される人も。そういう運命だと。
学校でいじめに遭う人、いじめる人、そういう役割・担当が与えられているのだと。
会社で身を粉にして働く人、ただラクをする人、真面目に仕事に取り組みすぎて囚われすぎて死ぬ人。


なんだろうこれは。



努力をしなさい。我慢をしなさい。適正を知りなさい。身の程を弁えなさい。
あぁ、これは他者からの臨まれる中で“私”を 当て嵌めようとしているのかしら。
役目を植えつけようとしているのかしら。

もともと“私”は環境によって構築されたものであるとして。もともと“私”は他者の意思によって構築されたものであるとして。
しかし、
そ れ は そ れ と し て 、別の価値観を要求する。

そして臨まれる“私”を演じることで他者は喜び感謝し、“私”は誰かの価値観によって構築されたものであるにも関わらず、“私自身”が満たされたものだと感じてつい喜び勇んで、臨まれた異なる価値観の“私”で在り続ける。


誰かとの同一に心は安心し。
誰かとの差異に悩み。
誰かとの差異に“私”を知る。



主語が欠落し、同調の中で“私”は在ろうとして 尚 差異は狭窄し“あなた”を見失う。

うつろう中で確立はブレ続け、不確信(不核心)の存在に依存する。


『変わり続ける“私”』が、『変わらない“私”』。

恒常的生活に刺激を。その刺激を知る際の差異の感覚が瞬間の“私”を知る。

そこに本当の一瞬の“私”が。

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2011年7月 2日 (土)

“駄文 12”

諦観さえ習得すれば、多少はラクになれるのかもしれないけど、そうもいかないからね〜。
どれだけの人が“付随するもの”に関心を持って、どれだけの人が“芯”を必要としているかは知らないけど。

吐けるうちに吐いておこう。と。


“真実”に近い位置のものに触れると、あまりに現状と比較してうんざりするコトもあるんですが、あぁ まぁ 仕方ないか。とも。
なにが“真実”やねんってのもあるわけですが。 あぁ まぁ。


もぅ、人は必要じゃないでしょ?
もう、いいじゃないか。と思うんですが。
私も幻覚に振り回されるワケですよ。人のコトは言えないもので。

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2011年6月25日 (土)

“自分用メモ”

◎愛されたい、愛されたいと思っていると。
愛されないのは何故なんでしょう…?

>「愛されたい」=「愛されていない自分」という現状認識ですよね。
だから、そう思う回数が増すほど、その現状が引き寄せられるだけだと思います。(^^)

相手は愛しているのに「愛して」と要求され続けてたら、自分の愛情に自信がなくなってしまうかもしれませんね。
自分の差し出す愛情が大事な人にどうやっても伝わらなかったらとても辛いですよね。

愛されたいから愛するというのは番組で指摘あったように、愛ですらありません。
条件がついてるのは相手への愛ではなく、自己愛で、それが相手が去っていく原因だと言われてましたよ。

自分に愛がない、は大いなる幻想だと私は思いますが、枯渇していると認識しているなら、相手や自分に無理に愛を求めないのが楽でいいと思います。
それが今は「愛したくない」と思っている自分への愛じゃないかなぁと(パラドックス的ですが)

植物や自然、動物、音楽、お菓子、何かに愛情を感じるのは愛だと思います。(^^)
自分が好きなことをたくさんすると自然に愛が増えていきます。


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そして もう一つ、

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ここに、「信頼」とは、相手が、自分の「期待」にこたえてくれるから、という条件付きの信頼ではありません。
そのような信頼では、信頼が「自分が利を得るための手段」となってしまいます。
多くの人間は、信頼の中身について、考えを、今、あらためる必要があります。信頼は、お互いが「与える」ものです。「求めて与えられるもの」ではありません。


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以上2つは某所からのコピペ。何処かからコピペして取っておいたんだけど、引用もとを忘れた。
なんか気になったのでここに残しておきます。

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