映画・テレビ

2011年10月29日 (土)

“【金曜ロードショー】 : 『[映画] 君に届け』を見た。”

2011.10.28.O.A.

金曜ロードショーで、劇場版・『君に届け』を見ました。

多部ちゃん目当てで、初めて見たんですが。
まぁ、多部ちゃんカワイイですよね☆

ツイッターのTLで実況も見てたんですけど、だいぶカットされてあるみたいですが、それは映画からテレビに焼きなおすときにカットした、っていうことと、原作からカットした、っていう両方なんでしょうかねぇ。
(wiki見たら 上映時間が120分超えてるので。)



なんていうか恋愛っていうよりかは、女同士の友情みたいなものの強さがあって、そこだけでも結構熱いんじゃないですか?
なんでそう友情関係になっていったか、っていう動機の部分が、見てて個人的には疑問なのもあったんですが。。。
(喜んでくれるからしてあげたい、っていう爽子の思いだったけど、利用されてるんじゃないか、とか、面白がられてるだけじゃないか、とか考えたりしてね…、(見てる私がひねくれてるだけかもしれないけど。) 爽子が疑うような子では無いと思うけどさ。)


ツッコミどころとしては、校舎の屋上が断崖絶壁だったとゆー…。www
……向こう側に映ってた校舎はフツーに柵があったのにねー…。w

くるみについて『アーモンドっぽい』…て……。どんな比喩よ…。w

ラストで爽子が告白するときに「いいよ、ゆっくりで」とか言ってたと思うけど、どんだけ余裕あんの風早くんッ…!!


思ったほどキュンキュンしませんでしたけど、多部ちゃん可愛かったから別に大丈夫です。←

原作とアニメは全く見てなくて……、…見るとハマる気がするから見てないのもあるけど、いつかは見ておきたいなー…。

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2011年10月27日 (木)

“【映画】 : 『モテキ』を観た。”




映画、『モテキ』を観てきました。


昨日・水曜日に朝10時過ぎからのヤツで見に行ったんですね。

リア充カップルとかいるとウザいので(笑)、なるべく時期外して行きたかったんですよ。
公開して間もない時期だと普通に人が多いし、レイトショーになると 尚 リア充のカップルとか居そうなので、公開から1ヶ月経って、まして朝に行ってきたんですね。
館内はカップルが1組程度。水曜日でレディースデーということもあって女性1人での方をちらほら見かけました。

ちなみに私も1人だが何か。(←

(っていうか、どっちみち1人でいつも動いてますが…。)


私信ですが、私 前日の仕事が終わって 寝てないまま、非常に睡魔が心配な状態の中、車を運転して劇場の入ってるショッピングモールに向かったワケです。
(そんなに人が多いのイヤかと。w)



以下、ネタバレを含みます。
(かなり内容にツッコミ入れてますので、観てない方で楽しみにされてる方は読まない方がいいかも…。)







内容ー。
過去、このブログでも書いた通り、原作も読んでますし、テレビドラマシリーズも見た上でなので、内容の知識的な部分で困ることは無くー。

雑感ですが、長澤まさみ演じる・みゆきは確かにカワイイと思うんだけど、おっぱいとかカレシ持ちってのがねー、
確かどこかで、
「恋人のいない女を争奪するには何千・何万のライバルがいるけど、恋人のいる女を自分のものにするには、たった1人の男に勝てばいいだけなんだ」
…っていう主旨のセリフがあったと思うんだけど、よくもまぁフジくんは逆に冷めないなー、って。
なんつーか、美人?かわいい?感じの子で、カレシ居る ってんなら、それは付き合いたいとかってより、ただヤりたいだけって思うので、奪って自分の色に染めるっていう欲がね。 そんなめんどくせぇ道わざわざ選ぶなら風俗でも行けよコミュ障が☆ とかね。

つかツイッターでたまたま絡んで意気投合して、いきなり部屋で一緒になってあんなキス(あのキスすごいねー、水のね。 よく思いつくね大根監督…(笑))とかしてくるような女、それ、逆に引くわ!と。w
逆レイプか!?☆ それ自分に(みゆき自身に)相当自信が無いとできないだろうと思うにな。
みゆきはカワイイとは思うよ。うーん。

本編中で、仲 里依紗さん演じる・愛が、『結局好きになってくれてから、そこからの暴走で 暴走に自覚してシャッター下ろすみたいなことを繰り返してしくじってきたから、今回(のみゆきちゃんへの想い)も失敗するよ』みたいなコト言ってたと思うんだけど、
そういった意味では今までのモテキシリーズと違って、相手・みゆきの フジくんへの想いがガチかどうか分からない(しかもカレシ付きだと途中からは知ってるワケだし)中での、フジくん本人のなんだかよく分からないけど好きだから諦めきれない …みたいな一途さはこれまでと全然違う印象。

だから今作は“モテキ”であって、“モテキ”では無い気がしたの。
過去シリーズみたいに、色んな女に本気(瞬間湯沸かし器みたいな、ですが。w)になってるワケでもないし。


そんな中、フジくんが揺さぶられたのは、麻生久美子さん演じる・るみ子で。

キャラクター的にも、この麻生さん演じる・るみ子は良かったですよ。長澤・みゆきちゃん以上に。
清楚な感じで、大人の女性(っぽい)るみ子が、フジくんへの好意で歪んでいく(←? (笑))というのはカワイイと思いましたよ。
特にあのフジくんが別れを切り出してからの夜の道で、「うわぁ~うわぁ~」ってなってるところね。あの飛びついてフジくん倒したトコ。w
…まぁ、その可愛さも、ハタから見たら…ってところで、実際に近くにいたら重く感じるのかなぁ。でも、現実でもっと重い女性のエピソードとか聞いてるとこの映画にあっただけの内容だとあまり“重い女”には見えなかったんですけどね。(笑)

B'zは素晴らしかったです。これは麻生さんにイメージが遠いから尚更。w

墨さんと朝チュンしたあと、そのまま出ていって牛丼をどんどん頬張るところはエロい。エロかったです。(←


仲 里依紗さん演じる・愛は、あまり出番無かったね…。しかも他の女性陣との接点も…。
見どころとしてはおっぱいくらいしか…。
朝おっぱいに手ぇ付けてるとこもだけど、フツーに寝てる姿を見るだけでも、仲 里依紗さんのファンの方はご覧になればいいと思うよ。つか、ケバい格好してたときから、あんなに胸を強調して…、…なんて思ってたけど、『ゼブラーマン』のときの方がすごかったっけな。


真木よう子さん演じる・唐木は、映画予告編では“ツンデレS女”とあったけど、デレは無かったよね…。原作 及びドラマ版でのリンダポジションだろうけど、別にフジくんがモテるためにどうこうってのじゃなかったから。
それよりも、フジくんが就職した、ナタリー編集部として、あの集団としてはすごく良かったと思う。
墨さんがうまく転がしてるからかもしれないけど(笑)、なんかあるとすぐ挫けてシャッター下ろして逃げるようなタイプだったフジくんだったと思うけど、たぶんあの映画の中のストーリーが続くなら、彼はナタリーを辞めないでいられると思うなー。
なんかサブカル知識があるから、っていうこともさることながら、うまいこと編集部の面々に可愛がられ続けるような。そんな雰囲気に見えたなー。

っていうか墨さんは……、すっかりヤリチンキャラに…。w


各キャラを中心に雑感どころかかなりがっつり書いてしまいましたが、ホント面白かったですよ。
歌のかかるところの演出とかね。“失格”の曲がかかって歩いてるところは噴いた。w

オープニングはフジファブリックがワクワクさせるし。ポールダンサーとかマジ豪華やね。
女王蜂は、映画で初めて見ましたよ。今こうして家でこれ書いて、ネットで女王蜂どんなんか見たりしましたけど、きっと映画本編中にもあったように、実際にライブに行ったらハマるかも。
Perfumeはあんな大胆に出演してるんですね…。
つか、Perfumeもだし、森山くんとか、ほかのダンサーさんとか、あれはすごい!華やかで見てて楽しいですわ。
あと、エンドロール!あれは見るとこ多すぎて目で追いきれないよ…。
DVDで一時停止しながらちゃんと見たいなー。

つかCカメが大根監督でいたけど、監督ってカメラ持つもんなのかしら?


かなり長い感想になってしまいましたけど、それだけ見どころ、面白いところがあったんです! なんつーの、友達とかに、あれが良かった、あのシーンでこんな人が…! とか言いたくなるような、ね。
やー、総合エンターテインメントの作品になってましたよ。
DVDになったらまたじっくり見たいな。カットされた映像もあるだろうし。


外部リンク↓
ナタリー モテキ 映画公開記念スペシャル


予告映像↓




↓パンフレット

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2011年10月23日 (日)

“『瀬戸内寂聴の東北青空説法』を見た。”

2011.10.22.O.A.

『瀬戸内寂聴の東北青空説法』を見ました。

番組で気になったところを中心にメモ。↓


◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

岩手・陸前高田にて。
『失ったものは返ってこない。 似たものを作ることは出来る。』
『しかし 失った心は返ってこない。本当に大切なものは 目に見えないもの。
  神・仏・亡くなった人の魂・みなさんの持ってる心。…そういうものが大切。』
『何を失っても。心を失わなければ 生きていけます。』

『亡くなった方は私たちの代わりに死んでくれたの。苦しみを代わって死んでくれた。“代受苦(だいじゅく)” それで今 私たちは生きている。』


岩手・天台寺にて。
『どんな辛いことも、それをバネにして生きていくことが出来る。 “定命(じょうみょう)” それだけの命だけしか生きられないと決まってる。 いつか死ぬから 今日一日をしっかりと生きましょう。』

『いい人がね、一生懸命まじめに働いてね、家族を愛してね、そういう御方が、もう みんな亡くなってるのね。 いいことをしたら いい報いがあると 昔から言いますけど、そんなこと無いよ。悪いことしたって図々しく生きてる人はいますからね。
  だけど、そういう矛盾や相克が山ほどあるのがこの世なんですよね。だからお釈迦さまは「この世は苦だ」と仰ったのね。そういうのが無ければ苦しみは無いですよね。
  だけど そういう苦しみが無ければね、哲学も起こらなければ、宗教も起こらなければ、文学も起こらないんですよね。ですからそういう人間の糧になることは、やっぱり人間の不幸を踏まえて生まれてくるのね。
  でも、時がそういう苦しみを薄めてくれるのね。時が薄めてくれるのが悔しいときがありますよね。もう忘れてならないのに、フッと気がついたら、亡くなった人のことを 朝も昼も夜も考えて。3年も経つと 今朝は思わなかった、昼間は忘れてた そういう時が必ずくるんですね。でもそれは それが救いだからね。そのときに忘れた自分を責めたりしないで下さい。忘れさせてくれるのが 時の所為ですよね。』


福島市へ。
『苦しみが分からないと言って済ませられない。』
『“無常” 常では無い。 今 ここに居続けることは 続かない。 どん底の下はない。どん底についたら上がるしかない。ボールをついたら弾むように、だんだん良くなっていく。』

10月。石巻市へ。
2人の高校生のラジオに寂聴さんがゲスト参加。
『“若き日にばらを摘め” 若いときは手に怪我をしても、ちょっとすればすぐ治る力がある。心の傷も 若いうちはすぐ治る。若いうちはキズつくことをおそれないで と。』
『笑顔にしてると幸せがくるのよ。大変なことがあって、また悲しい顔してると、また不幸がやってくるから、笑顔を人に与える。“和顔施(わがんせ)”人を幸せにするのよ。
  にこにこしてる顔で人に接すると 相手も幸せになるのよ。』

石巻 雄勝町へ。
『視点を変える。エネルギーをみんなから貰ってる。自分だけが幸せになるんじゃなくてね。  自分が生きることで みんなが幸せになること。』


再び 陸前高田。吉田邸の復興ボランティア。
『“忘己利他(もうこりた)”。 いいことは人に与えて、悪いことは引き受ける。人の幸せのために尽くしましょう という仏教の根本精神。 見返りは無いという美しい行為。』


再び 岩手 天台寺。
『自分の信念に沿って生きていきましょう人間は一人で生きて 一人で死ぬ。』
『“犀(サイ)の角のように ただ一人歩め”。 自分をしっかりする。一人が寂しいから 友達が、夫・妻がほしい。けど、一緒に死ぬことは無い。 自分の人生を生ききりましょう。』


◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎


被災地を訪れて、「宗教で救えるのか」とこばされたところがあったりなど、達観されてるような印象をあまりお見受けしなかったんですね。だからこそ地に足の着いた感じで聞き入りやすいというか。
愛した人をたくさん亡くして、忘れたり思い出したりとかね。

“若いときについた傷が、若いからこそ癒える”というのは、 じゃあ虐待とかどうなんだろう?と思ったりもしましたが(まぁ、震災とは関係ありませんけどね。でも、ほんとうに幼い時に、こういう震災があったことで、揺れたり夜とかが特別怖くなってしまうこともあるのでしょうから)、それもその直接的な痛みを受けることから解放されてからの、時が解決してくれることを願うばかりなのでしょうか。


あと、青空説法ではないところで、1回目の天台寺での説法のあとに中であったお話の、『矛盾や相克』についてとかがね、心に残りましたね。



いいことをしたところで、いい報いがあるとは限らない。
けど生きてれば いずれ苦しみは必ず訪れる。
忘れることも、忘れ去られることもあるだろうけど、“自分”をしっかり持って生きる という、そこに帰結するのでしょうかね。

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2011年10月 5日 (水)

“【100分de名著 ブッダ 真理のことば】 : 『第4回 世界は空なり』を見た。”

100分de名著 ブッダ真理のことば 
第4回『世界は空なり』を見ました。


MC 堀尾 正明
アシスタント 瀧口 友里奈

講師 佐々木 閑

ゲスト 藤田一郎


以下、大体テキスト化↓


◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎


佐々木:「今日はですね、自分自身を変えることによってわかってくる、ものの見方 ということについてお話しします。   特に今日は“空(くう)”というものを取り上げてお話ししたいと思います。
    日本の仏教でいう“空(くう)”というのは、これを知ることによって、たとえば仏になるための道が開かれる。たいへん重大で 重い教えとして伝わっていますけども、ブッダの教えの中では そういうわけではないんです。 人が色々なカタチで世の中を正しく見ていく その見ていく一つのあり方として、物事を“空(くう)”だと見なさい。と。そういう教えなんですね。
    ですから今日はまぁ、ブッダの空の教えを説いてる たいへん代表的な例として 仏教世界で一番古いと言われている、スッタニパータというお経の中から お話を一つご紹介したいと思います。」


《ナレーション》
 それは モーガラージャという修行僧が どうしたら死を乗り越えられるかを 尋ねたときのブッダの言葉です。

“いつも物事の本質を
 考えるようにして
 「ここに自分というものがある」
 という思いを取り除き
 この世のものは空であると見よ
 そうすれば死の苦しみを
 越えることができるであろう”
      スッタニパータ 一一一九


佐々木:「これはやはり 自分というものが永遠に存在する 絶対的な存在物では無い ということです。 したがって、“私”といっても そこの中には“私”の本体はどこにも無い。前回も申しましたように、色んな要素が集まってできてるのが“私”ですから。その中には“私”というものは“空”つまり 空っぽだと。」

瀧口:「空っぽなんですか?」
佐々木:「空というのは、こういう物・形があるんだけども、その中に本質が無いということです。なぜ 実体が無いのかといえば、それは諸行無常。すべてのものはいつまでも同じ形で残るものは何一つ無い。いつも移り変わって別のものに変わっていくからだ。 ということです。」

瀧口:「それは“私”もずっと変わらないわけは無くて、世の中と一緒で 変わってしまうんだよ。っていう。」
佐々木:「そうです。“私”というものは、昔から一つの存在で続いてるように思いますけど、実際は瞬間瞬間に別のものに移り変わる。ただ記憶とかそういうものが、それを引きずって 同じものだと思わせている。」

堀尾:「もっと言えば、“私”というものは、“空”になってしまうものだ…。」
佐々木:「本質的に“空”だ。今の“私”も―――」
堀尾:「“空”だと」
佐々木:「―――いうことです。」

堀尾:「そうすると、死をも乗り越えられてしまうと――…」
佐々木:「これは 死の“苦しみ”ということです。不死になるという意味じゃありません。死の苦しみから 我々は逃れることができるだろう ということですね。」


《ナレーション》
 “空”とは、自分が見ているものは常に変化しているかりそめの世界だと思え というブッダの教えです。世の中を“空”と見るためには、客観的に物事を捉えることが大切だと ブッダは説きました。しかしそれは容易ではありません。   執着やうらみなど、さまざまな煩悩にとらわれているからです。   ではどうしたら良いのか。大事なのは心の持ち方だと ブッダは言います。


“ものごとは心に導かれ 心に仕え
 心によって作り出される
 もし人が汚れた心で話し
 行動するなら
 その人には苦しみが付き従う
 あたかも車輪が
 それを牽(ひ)く牛の足に付き従うように”
      真理のことば 一


佐々木:「つまり外から我々は色んなものを認識していますけど、それを正しく客観的にできればいいんですけど、それを必ず心が歪めて認識してしまう。 歪んだ認識が 結局我々に苦しみをもたらすのだ。 つまり歪んだ心でものを見ると、そのあとに必ず苦しみがくっついてきますよ と。そういうたとえなんですね。」

堀尾:「歪んだ心 というのは、具体的にどういう状態のことを歪んだ心となるんでしょうね」
佐々木:「それは外界からの認識に対して、たとえば執着とか無明とか」
堀尾:「うらみとか」
佐々木:「うらみとか。そういった煩悩が、一種のフィルターになって、物事を自分中心に作り上げてしまう それが私の実際の本当の世界だと思い込んでしまう。 これが物事が、心によって導かれてしまう ということなんですね。」

瀧口:「じゃあ心の持ちようで、全く見え方が決まってきてしまうということですか」
佐々木:「そうですね。ですから心の持ちようをどうするかによって我々は、我々の心に苦しみが生まれるか生まれないか、それは決まってくる ということですね。」

瀧口:「じゃその心を正しく持たなきゃいけないと思うんですけど、どうすれば心を鍛えることが出来るんですか?」
佐々木:「それは訓練です。」
瀧口:「訓練? それはどんな訓練があるんでしょう?」

佐々木:「もし私たちが 何の訓練も受けずに 生まれた赤ん坊のままで育っていたらどうなっていたか。何も 物を客観視する力が無く、ただ野生のままで育っていく。 しかし私たちはそれを学校教育だとか、色んなところで『これはこう見なさい』というふうに ものの見方をならって(習って? 倣って?)きます。 それが積み重なって本当のものの見方をようやく身につけていく。ということですね。」


《ナレーション》
 ブッダは、心の持ちようを訓練すれば自分勝手な思いにとらわれず 苦しみから逃れることができると説きました。それが世の中を“空”と見ること。つまり、客観的に真実を捉えるということなのです。
 そうしたブッダの考え方は、科学にも通じると佐々木さんは言います。

佐々木:「言ってみれば科学者というのは そういった ものの見方を徹底的に突き詰めていく 客観的にものを見るためのプロですね。それが科学と呼ばれる一つの世界を作ってるんだと思いますね。


◎ブッダの教えを科学的に見るとどうなのか ということで、大阪大学大学院教授・認知脳科学者 藤田一郎さんがスタジオへ。



堀尾:「佐々木さんもお若い頃は科学者を目指していらっしゃったとお伺いしましたが。」
佐々木:「お恥ずかしい話ですが。(苦笑) 色々あって今は仏教学に移りましたけど。まぁ、仏教やってるうちに、だんだん釈迦の教えに触れて それは私にとってたいへん驚きだったんですね。
    まさか科学の因果関係に基づく合理精神が、仏教という宗教の根底にある 初めて気がついたときは たいへんまぁ驚きだったわけです。で、今ではそういう2つの場所に両方いることが出来た ってのはたいへん幸せなことだと思ってます。」

堀尾:「ブッダの教えというのは非常に宗教的、心の問題のようなイメージがありますけど、藤田さん このブッダの教えと脳科学の共通点 これはどういうところにあるんでしょうか。」

藤田:「科学は何千年も真理を追究してきたですね。その殆どの部分は 物質世界を対象に提供してきたんですけども、やはりこの何世紀かですね、精神世界も対象にするようになってきたんです。それが脳科学だというふうに考えます。
    脳科学自体は19世紀ぐらいにはもう始まってるんですけども、心の出来事を脳の出来事で説明する、と、理解しようと、そういう学問はやはりもう最近と言っていいと思うんですけど。1980年代から本格化してきました。
    ですからもう2500年前にブッダが目指していたことを 今の科学で突き進んで行こうと、それが今の脳科学であると考えてもいいと思います。」



【ブッダの教えと脳科学 “客観的”とは何か?】

堀尾:「これまでブッダは人間の認識は主観にとらわれがちである という、もっと客観的に見ろということを説いてますけども、科学から見るとどういうことが言えるんでしょうか」

藤田:「具体的な例をご覧頂きたいと思います。 どういう絵に見えますか?」





瀧口:「うーん、これは三角形が2つ重なってますよね。」
堀尾:「あの黒い線が描かれた三角形の上に、白のイメージが。……そうですね。」

藤田:「これ、三角形、内側と外側では どちら側が明るいですか?」

瀧口:「明るい…あ、内側の…上側にある三角形の方が明るくて浮き上がって見えますね。」
藤田:「そうですね。ここが明るくてここが暗い。というのは輪郭が見えますか?線が」
堀尾:「見えますねぇ。」
瀧口:「はい 見えます。」

藤田:「これ、勿論ここには何も無いわけです。色も線も無いわけです。この中、白く塗ってるわけじゃありません。」




藤田:「これはあくまでも、2人の心の中にだけある輪郭でして、“主観的輪郭”といいます。これはどなたに見て頂いても見えるんです。 ここにあるものと、目に映ってるものと、私の脳 みなさんの心の中に浮かんできたものの間には違いがあるんですね。ズレがあります。」

瀧口:「じゃあこれは間違ったものを私たちは見ちゃってる っていうことになりますか?」

藤田:「ここに無いものが見える という意味では間違ってるということも言えるんですけど、これは脳がやるべき仕事を今やってるからこれが見えてるんだと。そういうことを示してるんだというふうに考えています。で、やるべき仕事。この場合何かというと、足りない情報を補う・補完という そういう仕事なんです。」

堀尾:「脳はもともとそういう補完する能力があるということ―――。」
藤田:「そうなんです。普段の生活の中では どういうことに役に立ってるか ということなんですけども、まずですね、この写真を見て頂きたいんです。これ なんだと思いますか?」

瀧口:「あれ?なんですかこれは」
堀尾:「カマキリでしょう」
瀧口:「カマキリですか!?」




藤田:「これはハナカマキリという、マレーシアにいるカマキリの一種なんですけども、巧みに花びらに擬態することが出来る。化けることができる――その様子をちょっと見てみますと、これなんですけど どこにいるか分かりますか?」




堀尾・瀧口:「「えぇ~~~っ!?」」

堀尾:「全く分からないです。」
瀧口:「そうですね(笑)」

(写真中央あたりに擬態しているハナカマキリがいる。)

藤田:「ところがですね、これ こんなふうにステキに見えるのは、私たちの脳が働いてるからこういうふうに見えるんですね。これ、あの実は色を明るさに基づいて 輪郭をコンピューターに抽出させます。そうしますとこうなるんですね。
    これ、見てお分かりのように カマキリの胴体と首が分かれてしまってます。頭もよく分かりません。これの花びらなどは輪郭がうまく抽出できてませんね。」

堀尾:「花びら自体も分かりにくくなってると」

藤田:「分かりにくくなってますね。これは言ってみればですね、私たちの目の奥にある 光を感じる網膜が 捉えてる像に非常に近いんです。もちろんこれに色がついてるんですけど 網膜の場合には、それでもそこから抽出できる、最大限の情報というのはこのくらいのものなんですね。」

《ナレーション》
 普段、私たちの目の奥にある網膜がとらえるのは こうした不完全な輪郭情報です。しかし脳が記憶などから情報を補うことで 私たちは この写真のように世界を見ることが出来るのです。


堀尾:「ということは、網膜に映る世界と、脳が解釈してる世界が違うということですよね。」

藤田:「そうですね。一番分かり易い例えはですね、こういうテーブルでもそうですが、お皿でも、世の中にまんまるな物ってたくさんありますよね。
    でも、まんまるなお皿や まんまるなテーブルが、私たちの網膜の上でまんまるに映るときってどんなときですか?」

藤田:「まるがまるとして目に映るのは、真上から見るときだけですよね。そうですよね。
    そういうとき、滅多に無いです。私たちの目に映ってるものはいつだって、本物の物体の像とは違ったものが映っている。殆どの場合は。   そういう意味では、脳が解釈して自覚したり認識したりすることに結びついてる結果というのは、網膜に映ってるよりも客観的であるかもしれない。」

堀尾:「先生たとえば、これは上からこうやって見たら丸いから、座って見ても過去に上から見た経験があるから っていうから丸く見える っていうものでもないんですか?」

藤田:「でもさきほど話題になってましたように、最初にこのカマキリを見てなかったら この花の写真にカマキリいるなんて分からなかった。 ということは最初にカマキリを見れば、私たちがその経験を積んだことで見えることになると。 ですから物がどう見えるかではなくて、そこに何があるかという認識のレベルになると。 すごく訓練であるとか 経験であるとかいうのは大きな役割を持ってくるわけですね。」

佐々木:「たとえば仏教ですと、修行によって私たちは間違った世界観をより客観的に正しく見なければいけないと言うんですが。」

藤田:「今は私が専門にしてるということで、視角を例にとってるわけですけども、もっと感情とか、何かの出来事に感情がものすごく結びついてると、『幸せだった』『あれは良かった』『我々は非常に悔しい思いをした』『ヤツにはうらみがある』 と。そういうようなことはちょっとレベルの違った、脳の中の違った場所で 処理されていまして。
    そこでは、僕はものを見ることよりは、もう少し、意識的なコントロールができる というふうに思います。それは自分自身の経験としてもそうですし、脳科学としてもそういう知見というのはかなりあると思うんですね。」


《ナレーション》
 脳科学の観点では、物事を客観的に見るには経験が大事だと言います。一方ブッダは物事を客観的に見るには心のコントロール つまり精神を集中させることが必要だと説きました。


【精神集中は何をもたらすか?】

堀尾:「ブッダは物事を客観的にとらえるためには、瞑想しろ 精神を集中しろと、いうふうに言ってますね。」
瀧口:「でも客観的にとらえるために、どうして瞑想が必要になってくるんですか?」

佐々木:「瞑想というと宗教的な感じがしますが、精神集中というと まぁ、色んなことに必要な精神のはたらきですわね。あの 集中した精神というのは、特別な力を持ってると思います。 仏教というのは その集中した精神を使って自分の心の中を観察して、それを変えようとする。」

堀尾:「藤田さん、この瞑想については 脳科学的にはどういうふうにお考えになりますか?」
藤田:「たとえば瀧口さん、大学で勉強していて、外で工事がガンガンと始まると。」
瀧口:「よくあります そういうこと。」
藤田:「ありますか そういうこと。」
瀧口:「もう気が散って、全然集中できなくなっちゃいますね。」

藤田:「やっぱり私たちの脳っていうのは 自分の周りの世界で変化が起きたことを検出することが大事な仕事ですので、そういうものがあったら当然 そちらに注意が向くんですね。 だけども、それを上手に一つずつ遮断していくと。
    たとえば、目を閉じて、他の感覚だけで食べ物の味を知ろうとか。目だけではなく 耳も閉じる ビールの泡の音も聞こえない。そうするとビールはどんな味になるのか。鼻もつまんでみる。
    一つずつ感覚を遮断していけば、それまで当たり前と思ってたものが 当たり前でないものに変わっていくわけですね。 最後には全て、外からの情報は来ない状態になって、で、そこで、何かを考えるわけですよね。瞑想というのはそこから先に心の中にあるものを整理していくわけですね。」
佐々木:「そうですね。」

瀧口:「つまり集中ということは 一つ一つ感覚を遮断していって こう、限定的にしていくってことが、集中して瞑想する っていうことに繋がるんですか。」

佐々木:「一つの対象を徹底的に観察して理解するためには、そうせざるを得ないでしょう。ほかの余計な情報は それを妨げる原因になりますからね。」


《ナレーション》
 人は時として苦しみや悲しみなどの感情に溺れてしまいます。 そうしたときに正しい判断が出来なくなり、自分を追い詰めてしまうことがあります。そんなときこそ自分の状況を客観的に把握し、生き方を変える勇気が大切になります。
 ブッダは苦しみから逃れるためには 強い意思が必要だと説いたのです。


堀尾:「あの、今の時代、非常に不透明な日本、この、どうして自分が生きてるのかという 意味を見出せない若者もいればね、一方でこの大震災が起きて、大切な肉親を失って、ほんとに自分はこれからどうやって生きていこう っていう苦しみにもがいてる方もいらっしゃる。
    そういう中でね、このブッダの教えが、どういうふうにしてそういう方たちのために活きていくか というのは佐々木さんどうでしょうか」

佐々木:「私たちに必要なのは 世の中のあり方をしっかりと自分の目で確認して見ること、そして正しい判断を下すこと。これがたいへん強く求められてる時代だと思います。 ですからブッダは一人一人のために教えを説きましたが、それは今の日本という国全体にしても たいへん意味のある、役に立つ教えだと思ってます。
    ですからブッダの教えを一つ一つゆっくりと噛みしめて、それが意味しているもの 自分たちの中へ取り込むことで 自分の生き方を変えることができるかもしれない。
    そういう意味ではみなさん一人一人がブッダの教えをよく理解して頂く、そして生きる杖にして頂きたいと思ってます。

◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎


正直、脳科学の見地(というか藤田さんの解釈)が加わったことにより、ますます意味が理解できなくなってしまったんですが。

心の問題から脳のほうにいったのなら、身体的な反応や対処とかももっと踏み込んであっても良かったんじゃないかと思うんですけどね。

たとえば、過去の経験から見たものを記憶から補完するってこととかね。
あぁ、あとは佐々木さんが言われていた、『学校などでものの見方をならって(これどっちでも言えますよね、個人の対処としては。“習う”も“倣う”も)』っていうのがありましたけど、そもそもその ならったこと自体が過去の記憶による補完されたものの見方で、それが正しくなかった っていうこともあり得るワケですよね。

ブッダの教えにすら執着するな(前回より)というように。
…まぁ、こういうのも理解と解釈を重ねていって客観をすることになるんでしょうか。

網膜に映るものと、脳が解釈してるものがある っていうその違いについては面白かったですが。

瞑想については何か煮え切らない感じ…。
外界からの感覚を意図して閉ざしても、脳内ではゴチャゴチャと雑念が浮かんでくる場合のことは触れてなかったような。

しかし…なんていうか…、
最後の堀尾さんのフリにあるように、その不透明で各自の持つ不安に対しての処方箋みたいなものは何か? みたいなものを最後に佐々木さんから欲しかったんですが、

“世の中のあり方をしっかりと自分の目で確認して見ること、そして正しい判断を下すこと。これがたいへん強く求められてる時代だと思います。”

これだとそれこそ各個人の、
起きたことは一つであっても、解釈は人によって異なるように各個人の解釈に委ねられ、自分で希望を見つけていくものだ。と?
と言うならばどうしても過去の経験と現在の状況を自分の目で見ると憂うより他ならないんですよね…。

これまでもアスボムッレ・スマナサーラ氏の本を読んできたりしましたので、仏教に関しては大体言わんとしてることは分からなくも無いんですが、それを踏まえて、もっと得たいものがあったんですがちょっと消化不良な感じ。

今のところだと 諦観が結論に感じてしまうし。

ニーチェの永遠回帰も含めてもね。

うーん。第2回、3回は面白かったかもね。


ブログ内リンク:“【100分de名著 ブッダ 真理のことば】 : 『第3回 執着を捨てる』を見た。”


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2011年10月 3日 (月)

“【100分de名著 ブッダ 真理のことば】 : 『第3回 執着を捨てる』を見た。”

100分de名著 ブッダ真理のことば 
第3回『執着を捨てる』を見ました。


MC 堀尾 正明
アシスタント 瀧口 友里奈

講師 佐々木 閑


以下、大体テキスト化↓


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佐々木:「前回は“うらみ”という一つの煩悩でしたけども 今日はもう一つの大きな煩悩である、執着というものについて お話をしたいと思います。」

堀尾:「物とか、人とか 『自分のものだ』って思う瞬間 って多いですよね。
    これはいいことなのか 悪いことなのか ってことですよ。」

佐々木:「執着といっても たとえばですね、ブッダのことばを信じて、その道を進むというのも、ある面から見たら執着ですね。
    しかし世の中には愚かな執着があって、それが苦しみを生み出してしまう。そういうものがあるんですね。今回のブッダの言葉にしても、真理のことばの中に 執着を示す物語があるので ご紹介します。」


――――――――――――――――――――――――――――――――――――

美しさに執着していた王妃に ブッダはそれよりさらに美しい女性の幻影を見せるが、その幻影が年を重ね 老いて白骨化していった。
ブッダは、 人間の肉体は永遠に続くものではない。だから美しさに執着しても、意味が無いと 王妃に悟らせた。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――


堀尾:「そうはいっても女性は年齢を重ねても美しさにこだわるんじゃないですか?」
瀧口:「そうですよね。女性としては美しさは永遠のあこがれですから。」

堀尾:「ただやはり、確実に年老いて、最後は死ぬという現実は紛れもないわけですからね。」
佐々木:「今の場合、王妃は美しさというものに執着したわけです。しかしその執着の美しさというものは、前回も申しましたように“諸行無常(世の中の全てのものは移り変わっていく)”ですから、いつまでも続くものではない。 いつまでも続かないものに、いつまでも続いてほしいとして執着した。それが現実との間に全然違うギャップを生み出してしまう。それが苦しみの元ですね。
    逆に言いますと、美しさというものは 今のVTRのように 必ず衰えていくものである ということが、最初から理解できていたならば、その美しさに強く執着することは無かったハズです。そこに苦しみが生まれるか、それか苦しみが無いか。その違いが表われてくるわけですね。」


【苦しみを生む執着とは?】

“貪欲(とんよく)に染まった人は
 流れのままに押し流されていく
 それはまるで
 蜘蛛が自分で作り出した糸の上を
 進んでいくようなものだ
 一方賢者は
 その貪欲を断ち切り
 執着することなく
 一切の苦しみを捨てて
 進んでいくのである”
      真理のことば 三四七


佐々木:「貪欲――…執着に染まった人は ものの見方が一つに染まってしまいます。例えば今の話のように、美しさが私の全てだ と思った人は美しさだけしか目に入らなくなってる。これが『流れのままに押し流されていく』。 自分が執着したことに、自分が流されていくわけです。自分がつくった道を 自分が流れていく。これが、蜘蛛が自分で作った巣の上 そこしか歩けなくなってしまう という喩え。
    『一方賢者はその貪欲を断ち切り』そうすると、一つの道しか歩けなかった人が自由になって 貪欲から生まれてくる執着から生まれてくる苦しみを捨てることが出来る。そういう意味なんですね。   私たちは色んなことに執着しています。この執着がそれぞれ色んな苦しみを生み出している。それが、私たちの普通の生活だと言ってるわけですね。」


《ナレーション》
 執着は あることにとらわれるあまり、自分の人生を縛りつけてしまいます。執着することで選択肢を失い、自分自身を追い詰めてしまうのです。 ブッダはそうした執着は 自分の周りにいる人にまで及ぶといいます。


佐々木:「その執着にもう一歩踏み込んだ 真理のことばがあるのでご紹介します。」

“愚かな人は
 「私には息子がいる」
 「私には財産がある」などといって
 それで思い悩むが
 自分自身がそもそも
 自分のものではない
 ましてやどうして
 息子が自分のものであろうか
 財産が自分のものであったりしようか”
      真理のことば 六二


佐々木:「これは『私に息子がいる』という気持ちは問題ないんです。これは当たり前のことです。『私には財産がある』これも当然のことです。しかしながら問題は、『私には息子がいる』だからこの息子は私のものだ …というふうに所有の気持ちですね が起こると、息子の人生にまで執着が起こってくるわけです。
    ですからこの子どもがたとえば、自分のあとを継いでほしいと思って、自分のあとを継いでくれと頼んでいるのに 息子は『私は自分の道をいきます』と いってしまうと、何が起こるかというと、非常に辛い苦しみと、そして場合によってはその息子に対する憎しみが起こります。
    それは何故かというと、もともと私と息子は別個の人格で、一人の独立した人間があるのに、それを間違って 息子は自分の所有物だから 自分の好きなように動かせるんだ・生きるべきだ というふうに 自分の思い通りに生きるべきだと考える、その考えに間違いがある。これは執着が生み出す苦しみ。財産についてもそうです。
    そういうことで我々は、自我のまわりに自分の所有する世界というのを無理矢理つくって、そしてそれを そのまま抱えて生きていこうとするから苦しみが起こる。という そういう話ですね。」


堀尾:「しかし親になったらこうしてほしいとか………塾に通わせ …って気持ちが」

佐々木:「将来この子(自分の子ども)は、自分一人で生きていくのであって、人生にまでは干渉しない という思いが必要です。 それで授かった子どもですから。大事に育てて大人にするのが親の義務。しかしその義務を越えた先にあるのが子どもの人生だ。こう思うなら さっき言ったような苦しみは起こらないですね。」


《ナレーション》
 子どもまで自分の所有物だと思い込み、自分の思い通りにしようとする。執着は自分勝手な思い込みを生むと ブッダは考えました。そうした執着にとらわれないためには 自分自身を変えるしかないとブッダは説きます。

堀尾:「『自分自身がそもそも自分のものではない』というところをもう少し解説して…」

佐々木:「それはですね、自分自身というものが最初からあって、不変でいつまでも続くものであるならば それは素晴らしいことかもしれませんが、“私”というものは、今いる“私”も、それからその先にいる“私”、これはみんな別ものです。どんどん変わっていってしまう。ただ、様々な要素が寄り集まったところに、今“私”というものが仮に存在してるだけであって、『これが私です』という実態は何も無いんだ と。それなのに“私”というものにしがみつくと、これも同じように苦しみになる。」


《ナレーション》
 人間を構成する要素である肉体は 永遠に続くものではなく、いつかは衰えていきます。そのため、自分の姿に執着しても意味がありません。 ただし、心は衰えることがなく 鍛えることが出来る と ブッダは説きます。執着にとらわれない柔軟な意思を持ち、将来の道筋を決めていくことが大切なのだとブッダは考えたのです。


佐々木:「あくまで“私”は要素の集まりなんだけど、この中に今の私を自分が変えていくことによって、将来の道筋を決めていく という意思作用。それも、その“私”の作用の中にあるわけです。だからこそ仏教は宿命論ではなくて、今の自分の努力が、この先の自分を決めていく という 修行の宗教になるわけです。」



【意思を持って生きるとは?】

佐々木:「ブッダは執着というものを非常にこう よくないことだと。煩悩の中でも特に大きな煩悩だと。したがって驚くべきことに ブッダは、自分の教えにさえも終着するな というふうに。 それを示す『いかだのたとえ』という話がマッジマニカーヤというお経にありますので、ちょっと紙芝居でご説明します。」


佐々木:「ある旅人がいまして、向こうの 遠くの町まで出掛けていく その旅に出たんですが、その途中に1本の大きな川があって それはとても歩いて渡れないような川なんですね。



    そこでこの旅人はどうしたかというと、何とか川を渡ろうと思って 先ず そのへんの木を切って、渡るための船をつくる。この場合はいかだを作ったわけです。





    そしてそのいかだに乗って、まぁなんとかこの川を渡りきって、

    そしてそこでですね、ブッダは問いかけるわけです。『さぁみんなどう思うかね。この旅人は、もう川を渡りきってしまった。この大きないかだを、そのあとも頭に乗せて目的の町まで運んでいくと思うかね』こう尋ねるわけです。 いかがですか?」




瀧口:「そうですねー……これは置いていきますね。」
堀尾:「そうですか。僕 持って行きますよ。」
瀧口:「え!? 持っていきますか!? ほんとですか」
堀尾:「せっかく一生懸命つくったんだし、例えば 雨傘・日傘にもなるし、オオカミとか来たら…」

瀧口:「でも、堀尾さん、重たいですよ。頭の上に乗せちゃうんですから。」
堀尾:「もったいないよ。」

佐々木:「意見が分かれましたね。(笑)
    たとえばこれ、仰ったとおり重いです。それでこれを担いでいく前に、もちろん体力消耗して 倒れてしまったら一番おおもとの目的、つまり『向こうの町まで行く』という目的が、それでもう挫折してしまう。つまり 自分が持っている、大事なものだと これが大切だと思っている いかだの所為で、自分の人生が挫折してしまうということもありうる ということです。

    ここで言う“いかだ”というのは ブッダの教えを喩えています。この川は向こう岸に渡る つまり 彼岸に渡る。これは悟りの世界に渡ることを意味していますから、そのためのいかだですから これはブッダの教えです。」

堀尾:「ブッダの教えを置いていきなさい ってことを言ってるんですか」
佐々木:「渡ってしまったら もう必要ない ということです。」

堀尾:「いかだを自分で作って それを使って向こう岸に渡れたわけです。成功したわけですよね。成功体験をもある意味 あなた自身にとっては無意味なものになってしまうよ と。」

佐々木:「そういうことです。その場その場において、一番大切なものを選びとっていくべきであって、過去にそれが自分にとって大事だったとか、それでうまくいったとかいうものは 今の自分にとっては何の意味も無いです。」





佐々木:「それではこの話と関連しまして、ブッダが亡くなる直前に 遺言として語った言葉がありますので、それをちょっとご紹介します。」

《ナレーション》
 45年間伝道につとめ、80歳となったブッダ。ある村で重い病に侵されてしまいました。
病に苦しむブッダを見て、弟子たちは ブッダが亡くなったら あとは誰を頼りにしたらいいかと心配しました。それに気付いたブッダは弟子たちにこう語りました。

“自らを灯明(とうみょう)とし
 自らをたよりとして
 他をたよりとせず
 法を灯明とし
 法をたよりとして
 他のものをたよりとせず
 生きよ”
     大パリニッドナ経

 これはブッダが弟子たちに説いた 最後の教えで“自灯明 法灯明(じとうみょう・ほうとうみょう)”と呼ばれています。

佐々木:「この教えはですね、ブッダの最後の旅を語る大パリニッドナ経というお経の中に出てくるもので この“自灯明 法灯明”というのは有名なブッダの遺言として、今でも伝えられているものです。
    その意図がわかるものがありますので、それをご紹介します。」

“自分の救済者は自分自身である
 他の誰が救ってくれようか
 自分を正しく制御してはじめて
 人は得難い救済者を
 手に入れるのだ”
      真理のことば 一六〇


佐々木:「さきほど“自灯明 法灯明”という言葉が出ましたが これは自分を灯明にせよ 法を灯明にせよ、つまり 灯明というのは自分が亡くなったあとに誰を頼りにしたらいいか、何を頼りにしたらいいか というランプですね。暗闇を歩く。
    で、それは自分であり、法である といいます。自分というのは修行者本人。そして法というのは これはブッダが説き残した教えです。つまり自分でがんばっていけ と、こう言ってるわけです。それがこの詩の意味にも表われてきます。『自分の救済者は自分自身である』その通りです。で、『他の誰が救ってくれようか~手に入れるのだ』。 自分の心をきちんと正しい方向に向けていくことによって、はじめて自分自身を苦しみから救うことができる。」

堀尾:「仏教というと 彼岸があったら、彼岸に辿り着くために ある意味このブッダも含めて そういう人たちの教えにすがりついて、それに頼っていく というようなイメージがあったんですけど、最終的に自分の救済者は自分自身なんだよ ということを きちっと教えてるわけですね。」

“自己の救済者は自分自身”


《ナレーション》
 自分自身の意思を頼りにしていきなさい。それがブッダが最後に伝えたかったことなのです。
 そのとき重要なのは、自分の心を正しい方向に向けていくために 物事の原因と結果を突き詰めることだとブッダは説きました。 たとえば執着で苦しんでるときには そお苦しみの原因を見つけ、無意味な価値観に縛られないよう 心を整理することが大事だと諭したのです。

【執着を捨てるには?】

佐々木:「そこで一番大切なのが、ブッダが説いた 世の中は全て原因と結果で動いている。その法則性で世の中を見ていくことが、一番大切だと言います。そしてそれは普遍的なものの真実のあり方ですから、だれの視点が正しいとか彼の視点が正しいとかではなくて、原因・結果に基づいて 全てがきちっと合理的に理解できる その世界こそが この世界であると。」

堀尾:「つまり自分自身で考え抜いていくことで、執着というのをなくすことはできるということなんですね。」

佐々木:「そうですね。つまりこの世の中を正しく見る。正しく見るためには考えなければなりません。よく考えて そして正しく見る。そうすると世の中は 原因と結果の因果関係によって粛々と動いてるのが分かる。
    その中に自分勝手な世界を作って、ものに執着をするということが、これは苦を生み出すんですが、それが所詮は意味の無いことである。無意味なことである ということがわかったそのときに、その執着から生み出される苦しみも消える と、こういう構造になっているわけです。」

堀尾:「自分というものは ある意味 無いに等しい存在なんだっていうことを自覚する っていう…」
佐々木:「えぇ ただし それも先ほど申しましたように、意思作用が必要ですから。何も無い。私は無だ。 っていうわけにはいかないです。今の私は きちっとこの方向を向くんだっていう意思が必要です。
    その意思に従って 正しい方向を向いていくと、それが執着やその他の煩悩を消す道へとつながって、それが ひいては苦しみの消滅に繋がるということで。   仏教では自分の今の意思というものを とても大切にしてるんです。」

堀尾:「なるほど。だってね、執着全部捨てろ って言ったら 例えばほんとに向上心とか 人への情とか、それももしかしたら全部 執着かもしれない っていうふうで、捨て去らなければいけない、そんな思いにもとらわれるんですけど、やっぱり苦しみを伴わないものはそれはいいわけですね。」

佐々木:「そのときそのときで、今の自分にとって苦しみのもとになる執着はなんだ っていうことを考え続けなければならん っていうことですね。」
瀧口:「その 見詰め直すっていう作業が 大切っていうことになってくるんですね。」


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まぁ、大体は前回の“うらみ”の回についてと共通することではあると思うんですよ。どちらかというとこの第3回のほうが、前回より前の立ち位置にあるような感じでね。

気になったのは先ずこれ、
「あくまで“私”は要素の集まりなんだけど、この中に今の私を自分が変えていくことによって、将来の道筋を決めていく という意思作用。それも、その“私”の作用の中にあるわけです。だからこそ仏教は宿命論ではなくて、今の自分の努力が、この先の自分を決めていく という 修行の宗教になるわけです。」

結局この、唯一無二だと思ってる“私”というものは色んな因果関係によって存在しているもので、別個であるにも関わらず、“私”という個は“個”によってのみ形成されてるワケでは無いということなんでしょうか。
だから“私”は“私”のものでは無い。と。

でも、じゃあ意思作用というものはいったいどういうものなんだろうか。
無常の中で流れていく“私”というのは移り変わっていく時代や社会(年齢によって変わる人間関係)の波の中で摩擦がおこったりして削られたり、また付着したりして(海岸の貝殻や石のように)、“私”というものは形を変えて、意思も形成されていくということで。
じゃあ、その意思作用というのは、“私”であって、“私”では無いのでは。

結局どの範囲が(この表現の仕方も正しいのか分かりませんが)“私”なのか。

色んな要素によって構築される“私”というものは、普遍であって不変では無いということ。
そのとき大切だったおもちゃも、年齢を重ねたら要らなくなったり。
そのとき大切だった友人も、年齢を重ねたら合わなくなって、会わなくなったり。
ずっと続く人間関係というのも、過去の相手を求めるとそれは執着であって、変わっていくことを受け容れ合う関係は続いていくものなのかしらね。

で、『宿命論では無い』というなら、全ての出来事というのは決まってるわけでは無いというコトなのね。

それではネガティブな出来事はどう捉えたら良いのかしら。

いかだを置いていく。ブッダの教えさえも捨てる。成功体験すらも捨てる。
というのがあったけど、それもだけど、
失敗とか挫折とか、心に傷を負う体験とかを捨てる っていうことも大切になるわけで。
『今の自分にとって苦しみの元となる執着を捨てる』ということは。

どう捨てればいいんでしょうね。
事件・事故により傷ついたコトというのは。いわゆるトラウマみたいなものは。
そんなもん、執着してたら苦しいのは分かってることなのに執着してしまう …ってういうね。
前回の“うらみ”の感想でも書きましたけど。
ある意味、自分に対しての“うらみ”。取り返しのつかない悔い。がね。

ま、けど、ラストに佐々木先生の、
「(略)その中に自分勝手な世界を作って、ものに執着をするということが、これは苦を生み出すんですが、それが所詮は意味の無いことである。無意味なことである ということがわかったそのときに、その執着から生み出される苦しみも消える と、こういう構造になっているわけです」
という発言がありましたけど。
トラウマ自体が『今の“私”』には無意味であるということなのかな。

その発言に引き続き、堀尾さんが引き出して下さった、
『“私は無だ”っていうわけにはいかないです』
というのは大きいですね。
これは過去、アルボムッレ・スマナサーラ氏の本などを読んでても、なかなか掴めなくてそう思ってましたから。

“私”というものは“無”である。と。

けど、違う。と。

集合的な要素による、けど個 同士は別個である“私”という生き物。
それが苦しんで、生きるのを阻むものがあれば執着というものであり、それは捨て去るべきと。

常に自分の感情(苦しみ)を見張ることが大切。ということに終始するのでしょうか。


ブログ内リンク:“【100分de名著 ブッダ 真理のことば】 : 『第2回 うらみから離れる』を見た。”

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2011年9月23日 (金)

“【100分de名著 ブッダ 真理のことば】 : 『第2回 うらみから離れる』を見た。”

100分de名著 ブッダ真理のことば 
第2回『うらみから離れる』を見ました。


MC 堀尾 正明
アシスタント 瀧口 友里奈

講師 佐々木 閑


以下、テキスト化↓


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“なぜ「うらみ」を抱くのか”

佐々木:「前回は、私たちの苦しみには大きく2種類ある と話をしました。 一つは例えば、年をとる あるいは病気になる などの、避け難い大きな苦しみで。前回はその話をしたんですが、今回はもう一つの苦しみ、それは 私たちの心が作り出す・私たち自身の人工的な苦しみ というようなものを 色々考えていきたいと思っています。
    で、その一つのとっかかりとしまして 代表的な人間の苦しみを生み出すもと、それが『うらみ』ですね。その『うらみ』について色々考えていきたいと思います。」


ブッダのお弟子さんがつくったといわれる 物語から紹介。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――

●ブッダの親族である、シャカ族と、コーリヤ族が互いを滅ぼしかねないほどの激しい争いをしていました。そこへブッダが現われ尋ねます。
ブッダ:「これはなんの争いですか?」
将軍も副将軍も答えられませんでした。ようやく奴隷に問いただして、初めて水の利権の争いだとわかったのです。

ブッダ:「大王よ、水にどれほどの価値があるか」
大王:「わずかです」
ブッダ:「部族にどれほどの価値があるか」
大王:「はかりしれません」
ブッダ:「わずかな水のために はかりしれない部族を滅ぼすことは ふさわしくありません」

この言葉を聞き、シャカ族とコーリヤ族の争いは鎮まっていったのです。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――

瀧口:「友達とのケンカでも『なんでケンカしたんだっけ』っていうようなケンカもよくありますね。」
佐々木:「小さな原因であったのに、それが次第に増幅されていって 最後には何のために戦っているのかも分からなくなってしまう。そういうことありますね。  これこそ 我々が自分自身で生み出す苦しみの代表的な例ですね。
    で、今のこの話は ブッダ真理のことば の197番の詩なんですね。それについて説明しましょう。」


“うらみを抱く人たちの中で
 私はうらみを抱くことなく
 安楽に生きよう
 うらみを抱く人たちの中で
 うらみを抱くことなく
 暮らしていこう”
     真理のことば 一九七

佐々木:「これは仏教の教え ブッダの教えに従って生きていこう。そういう強い決意を表しています。『うらみを抱く人たち』というのは 一体誰か。 何か特定の悪い人なのか そうでは無くて、私たちは人間として生まれれば 全員 心の中に煩悩を持っています。うらみもあれば欲望もある。 つまりこれ(『うらみを抱く人たち』)は 普通の人たちの中で暮らす ということです。しかしその中で 『私はうらみを抱くことなく』これはつまり自分で決意して、そういう気持ちを起こさないようにして生きていこう というわけで それはとても強い決意を表しています。」

佐々木:「じゃあその結果 何が起こるのかというと、『安楽に生きよう』。  つまり自分の心の煩悩を消すことで、苦が消滅していくわけです。ですから本当の安楽 本当の幸せというものを求める、これが 私の道だ ということを説いてるわけなんですね。」

堀尾:「うーん… ただ仰るとおりですけど、たとえばパンを食べてて、誰かにパンを取られたら あ゛ーーっ!! ってその 取ったヤツに 『なんで、オレお腹空いてるのに』とうらみ持ちますよね。」
佐々木:「そうですね。」
堀尾:「だから うらみを抱かないで安楽に生きる って 相当難しいことなんですよね」

佐々木:「その場合、一番の原因は、『パンが自分のものだ』と思ってることですね。」
堀尾:「だって 食べてたんだもん。今。」

佐々木:「そのパンを たとえば 誰かが下さったパンで、たまたまそれを私は手に入れて食べているだけだ。 と思うのと、これは私が稼いだ金で買ったパンだから誰にも渡さない 私だけの物だと 思ってるのでは、全然そのときの気持ちが違ってきますね。 ですからそういった うらみを起こさない 煩悩を起こさないような状況に、自分の環境を整えていく ということも 仏教が考える大切な一つのポイントなんですね。



佐々木:「それでこの うらみを捨てる ということですが、えーまぁ、これはずいぶん昔の教えですけども、この教えに基づいた 有名な出来事があったんです。1951年のサンフランシスコ講和会議 はご存知ですか?」

堀尾:「はい。」
瀧口:「第2次世界大戦のあとに、日本が連合各国と平和条約を結んだ という―――…」

佐々木:「そうですね。そのときに この 真理のことばを用いた、とても重要な演説が行われたんです。それをちょっとご紹介します。」


……――――1951年 サンフランシスコ講和会議――――………

日本と世界の国々の間で平和条約を結ぶために行われた サンフランシスコ講和会議。領土や賠償に関して 日本に厳しい条件を提示する少なくありませんでした。 こうした中、セイロン(現在のスリランカ)の代表として出席した、ジャヤワルデネは印象的な演説をします。
ジャヤワルデネは戦争中に受けた、日本軍による空襲などの被害を指摘した上で、こう語りました。

「わが国は 日本に対して賠償を求めようとは思いません。なぜなら我々は ブッダの言葉を信じているからです。」

“憎しみは憎しみによっては止まず ただ愛によってのみ止む”

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

佐々木:「今のこの演説の言葉は この真理のことばの5番目の詩なんですね。」

“この世では
 うらみがうらみによって
 鎮まるということは
 絶対にあり得ない
 うらみは、うらみを
 捨てることによって鎮まる
 これは永遠の真理である”
     真理のことば 五

堀尾:「一個人ではなくて、国の代表者が こういうことを世界に向かって堂々とアピールできるってのは 器が大きいですよねぇ」

佐々木:「ここで言います この うらみが鎮まる っていうのは、いわゆる日本で言うところの『全部 水に流してチャラにする』というような意味とは全然違うんですね。   物事の対立に際しては 勿論その責任の所在も明らかにしなければならないし、謝罪すべきことは謝罪する。反省することは反省する。 そういったすべての手続きがキチンと終わった上で、さらに自分のこの 心の勝手な思いとして相手を憎むということはやめましょう と。
    それをすると いつまで経ってもお互いのうらみというのが 消えることが…あるいはそれが増幅していって、また次の争いを生み出す。そういうことを言ってるわけなんですね。」

堀尾:「ま、しかし、個人、人間同士ならわからないことでも無いんですけども、やっぱり国同士でいくとね、今も全く戦争が止まない地域もたくさんあるじゃないですか。 やっぱり うらみがうらみを呼んで、次々と争いが起こっていく というケースがありますよね。」

佐々木:「ですからこの うらみというものは、勿論 煩悩の一つなんですけども、煩悩というものが もともと人間の心に最初からあるものなんですね。
    これは 消せない。
    なにもしなければ そのまま我々は煩悩のままに色々なトラブルを起こし、苦しみを生み出していくんですね。 ブッダという人は この煩悩を消すために 一生懸命努力をしたわけです。で、煩悩とはいったいどんなものなのか。煩悩の正体は何だ ということを じっと自分の心を見詰めることで 見定めていったわけです。
    その結果 表われてきたのが、この うらみも勿論 煩悩の一つなんです。執着もそうです。傲慢もそうです。    しかし、そのおおもとに実は 親分のような おおもとの煩悩があるということに気がつくわけなんですね。」

堀尾:「なんですかそれは」
佐々木:「それは無明(むみょう)というものです。無明。」


【無明とは?】

“たとえば
 物惜しみは恵む者の汚れ
 悪行は 過去・現在・未来の
 いかなる生まれにおいても
 汚れである

 その汚れよりも
 一層汚れた汚れの極み
 それが無明だ
 比丘(びく)たちよ
 その無明という
 汚れを捨て去って
 汚れのない者となれ”
     真理のことば 二四二-二四三


佐々木:「もうひたすら 無明を消さねばならん ことを主張してるわけですね。
    『物惜しみは恵む者の汚れ』←これはちょっと日本ではわかりにくいんですが、インドという国を想定するとよくわかります。インドでは 良い行いの代表が 人にものをあげるクセなんです。 ですから『恵む者』というのはインド人にとってはよいことをする 当たり前のこと。 ところがそれを、物惜しみの心でしない ということは 悪いことであると。この”汚れ”というのは心の煩悩です。 物惜しみも煩悩であると言ってるんです。で、そのほかにも色々な事柄がいっぱいあるけども、それは全部、心の煩悩だ。
    しかし、その色々な煩悩の中の極みですね。これ以上ない、最大の煩悩―――。」

瀧口:「汚れの極み って言ってますから。」
堀尾:「諸悪の根源 って」
佐々木:「それが無明だ」

堀尾:「無明って なんですか これ」

佐々木:「この“明(みょう)”という字。これは智慧という意味です。智慧とはなにかというと、これは前回も申し上げましたが、この世のありさまを正しく見ていく力です。 で、それが無い ということは、この世のありさまを正しく見ることができない 愚かさ ということです。だから無明は 愚かさの別名なんですね。」

堀尾:「無明ねぇ~…先生もうちょっと分かりやすく説明していただけると……」

佐々木:「たとえばですね、一般的な友達の人間関係を考えた場合ですね、まぁ 友達付き合いをしてるのに なにか ちょっとした 些細なことでケンカをしてしまう。些細なことだから、本来ならば些細なことで仲直りができるハズです。  ところがその些細なことでケンカしたときに、私たちは勝手に色んなことを考えてしまう。『彼は本当は昔から自分のことが嫌いだったんじゃないだろうか』とか、あるいは、『私のことよりも あっちの人の方が好きになって、私との縁を切ろうとしてるんじゃないか』そのようなことをどんどん考えるわけです。
    そうなってくると、相手のそのちょっとした仕草や、意味も無い事柄までが まるで自分に対する敵対行為のように見えてくる。そして最終的には『あいつは私の敵だ!』というような憎しみにつながっていく。これは無明です。」

瀧口:「疑心暗鬼の状態になってしまうんですね」
佐々木:「そうですね。本来 全くなんでもないような状態であるのに、それを勝手に自分が捻じ曲げて考えて、そしてそこから心の色んな葛藤を生み出して、それが全部苦しみに繋がっていく。まさに自分自身がつくっている 人工的な不幸。無明というのはそういう不幸 苦しみの一番おおもとになるわけです。」


“無明とは自分勝手に解釈して 正しく見ることができないこと”


《ナレーション》
さらに真理の言葉には 無明を解決する手がかりについて書かれている詩があります。


“愚かな者が
 自分を愚かであると自覚するなら
 彼はそのことによって賢者となる

 愚かな者が
 自分を賢いと考えるなら
 そういう者こそが
 愚か者と言われる”
     真理のことば 六三


佐々木:「これは特に無明をテーマに語った言葉です。 つまり 私たちは生まれつきみな煩悩を持っています。悪い人だけが煩悩を持っているんじゃなくて、生き物として生まれた人間は全て煩悩を持ってるわけなんです。で、勿論 無明もあります。 従って 本質的に我々はものを考えるときに愚かな考え方をします。」

堀尾:「なるほど そう言えるわけですね。」
佐々木:「しかし私たちの中に無明があると気がついたときに 初めて人はその愚かさから抜け出すことができる。しかし自覚できない人は、自分の考えが正しいと思いますから、自分は賢者だと思う、ですから、『愚かな者が自分が賢いと考えるなら そういう者こそが 愚か者と言われる』そんなふうに言われますね。」



“「愚かさ」に気がつくことが大事”


《ナレーション》
人間は生まれつき煩悩を持っているとブッダは考えました。ではブッダ自身はどのようにして自分の煩悩を消し去っていったのでしょうか。


瀧口:「ブッダっていうと すごく特別な人物っていう感じがするんですけど。」
佐々木:「今の私たちから見ると ブッダというのは 完全・完璧な人間ですから。もう することなすこと全て正しい というふうに思いますが、やはりブッダは 歴史的な人間。我々と同じ人物です。そして悩み、苦しみ、間違って、その最後の結果として悟りを開いたということです。
    むしろ、ブッダがこうやって間違いを犯しながら 最終的に本当の道を獲得したという道筋は 私はとても素晴らしいと思います。」

堀尾:「我々にも通じる道筋でもあるわけですね。」


《ナレーション》
もともと釈迦族の王子ゴータマ・シッダールタだったブッダ。ブッダはどのようにして悟りをひらいたのでしょうか。それは修行の過程で ある間違いに気がついたことがキッカケでした。
インドの北部にある 前正覚山(ぜんしょうかくさん)。出家したあと、シッダールタはこの山で6年間 断食をはじめ さまざまな苦行を行ったといわれています。腹の皮は背中に接するほどにまでなり、ときには生死の境を彷徨うこともあったといいます。しかし煩悩は消えませんでした。どんなに過酷な苦行をしても、悟りを得ることはできない。まちがいに気付いたシッダールタは 苦行を放棄し山を下ります。 (セーナー村)衰弱していたシッダールタは村娘スジャータから乳粥を受け、健康を取り戻します。
その後 菩提樹の下で苦行から瞑想の修行に切り替え、悟りをひらき 目覚めた人・ブッダとなったのです。



瀧口:「苦行だと、悟りは得られないんですね。」
堀尾:「なんかねぇ、出家して 断食など自分の肉体を いじめていじめていじめぬいて、初めて何か真理がわかる みたいな そういうイメージあったじゃないですか。」
佐々木:「そうですね。」
堀尾:「苦行こそ心理を見抜くワザだっていうふうに思ってましたけど、違うんですか」

佐々木:「ブッダも最初はそう思ったわけですね。で、その、辛い思いを一生懸命耐えながら、じっとその我慢する。そのパワーが、自分の心の煩悩を消すという方向に向かうだろうと思って。そして何年も、さきほどの苦行像のような、ガリガリの姿で 苦行を続けたんですが、何も起こらなかったんですね。
    つまり体を痛めつければ忍耐力はつくのですが、煩悩は消えない。もし 煩悩を消そうと思うのならば、『煩悩を消さねばならない』という心の集中力を常に持続して 心の中に努力の方向を向けなければいけない。――ということに気がついたわけです。  伝説によりますと、このときブッダは苦行してるときに何人かの仲間と一緒に修行していたんだそうですが、ところがブッダはそれが意味のないことだと。無駄だと気がついて すぐに方向転換をして そして先ほどのように乳粥を食べて、言ってみれば 健康体になって、普通の体になってから修行をはじめた。それを見た残った仲間は、『あいつは堕落した。落伍した人間だ』といって、すごくバカにしたというんです。」

堀尾:「そう見えますもんね。」

佐々木:「そうです。しかしそう言われても正しい道はこれだと決めたら どんどん新しい方向へ向かっていく。これがブッダの進んだ道。非常に合理的なんです。」

【「うらみ」から離れるには?】

堀尾:「今日は『うらみ』からどう離れるか というのが一つのテーマなんですけども、日常的にやっぱりこう 小さなうらみから大きなうらみまで こうなんとなく 人に何か怨念を持ちながら生きるって どうしてもやめられない ってのありますよね。」
佐々木:「そうですね」
堀尾:「サラリーマンだったら 異動があって、何でオレがあそこのポストに行かなければいけない とか、色んなことを思って『アイツがオレを告げ口したんだ』とかね、『あの上司がオレを恨んでんじゃないか』とか、色んなこと思うじゃないですか。」

瀧口:「妄想がどんどん広がって――…」
堀尾:「そうそう。そういうカタマリになってしまうこと ありますよね。」

佐々木:「それは大変つらいことですよね。そのときに そのポストにつくことが、本当に私にとっての幸せなのかどうかという 一番おおもとのところから考えるべきですね。ほかの道は無いだろうか、つまりポストについてだんだん上に上がっていくことを最初から自分の幸せの道だと設定しているから それが苦しみになるのであって。」

堀尾:「出世街道から外れてしまった とか。」

佐々木:「外れるなんていうこと考えると またそれも苦しみになりますね。ですから それとはまた別の自分の生きがい、生きる道、そういうものを探していくということも大切なことですね。
    これはもう ブッダの教えは一歩一歩なんですね。何か特別なことで 一挙に消えることはありませんから 毎日少しずつです。 まさにいつもそれを念じて、“正念”ですね。念頭に置きながら、毎日毎日少しずつ 自分の心をトレーニングしていく ということが可能ですから。そういう中で ブッダが説いた、理想の境地へ少しずつ近づいていく。それがたとえ完成しなくても 毎日少しずつ よくなっていく という思いは私たちにとってはとても励みになりますね。
    そういう思いを持って暮らせば、現代の日常生活の中でも ブッダの教えは十分生かされていくと思いますよ。」

堀尾:「自分が中心だっていうことを 捨てる っていうことが すごい重要なわけですね」
佐々木:「それがなによりですね。」
瀧口:「なかなか難しいですけどね。」
佐々木:「難しいですよ それは。」

瀧口:「ちょっとクールダウンして、一歩引いて、自分を俯瞰で見詰めるっていう」
佐々木:「客観的にものを見る っていう これは訓練がとても大切だと思います。放っておいてできるものじゃないので。やはり毎日それをしようという 努力を続けていくことが大切ですね。」

◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎


わかってはいても 難解でございます。

終わりがけに、堀尾さんが、
『怨念を持ちながら生きることが どうしてもやめられない』
って仰ってましたけど、ホントにねぇ。。。

パンを取った・取られたの話にしても、
『これは自分のもの』だと なった時点から、それを守るほうに思考が働いて、それを脅かす存在には『このやろう!』と思うワケで。

生きるために 人は 何かを得るために、躍起になって。
でも 何かを得れば、今度はそれを守るために必死になって生きて。
で、それが疎外されれば怨んだり妬んだり。

会社のポストの話については、
結局そのレースで勝たなければ、幸せになれない っていうのがもう刷り込みされてるから、っていうかねぇ。
社長になれなければ、莫大な資産を築き上げるコトができなければクソだ。みたいなね。
そうじゃないと生きていけない、幸せじゃない、 っていう。
…そんな考えが根底にあるから、邪魔されるような出来事があると恨む。

(まぁ、なんというか どっちも次回のテーマの“執着”に繋がるんじゃないかと思いますが…。)

もっと、あの、厳しめな例が・例え話が欲しかったなぁ、とは思いますけど。
例えば誰かに大切な人を殺される。虐待される。イジメに遭う。など。

…これは冒頭に佐々木先生が言われた、“避け難い苦しみ”では無いと思うので。
(…うん?どうだろう…。天災とかの突発的な要因でも無ければ、老化などのいずれ確実に訪れるものでも無い。 …とは思うけど、環境的には閉鎖されていて、解決しにくい問題だとは思うので。)

…あぁ、でもこれはサンフランシスコ講和会議のくだりで出た話に繋がるのか。

(だとしても もっとクローズアップして欲しかったなー…)

謝罪や反省、責任の所在が不明なものが多いから、ここが納得いかない っていうのがあるんですけどね。
こと戦争においては、それが正義であると信じて殺人が肯定されているように、
戦争でなくても、個人間の諍いにおいても、それが当人にとっての正しいことだと思っているからこそ、衝突が起きて、傷を負う人がいるワケで。
(番組最後に堀尾さんが『自分が中心であることを捨てることが重要』と仰ってましたけど。)
だから過ちを犯しても、自分が正しいと思ってる限りはこれは解決しない問題で。

パンの話や、会社のポストの話にしても、…まぁ、なんでもいいけど、
正義や常識といったものが暗黙の了解のように、なっていて、疑うことをしにくくてね。
(かといって、自分に都合のいい正義を利用して解釈したりもあるんだろうけどさ。)


無明が全ての…諸悪の根源 …的な話があったけど、これもだから会社のポスト…看板みたいなもの(人を名刺で判断するような)がもうインストールされてるような ね。

たとえば『あの人は ああいう人だ』みたいなものも、それまでの人生で築き上げた、近似値の人を 一つの色メガネで見るような。先生にイヤなこと受けた人は『先生なんて…!』と思ったり、ヤンキーにイヤなことされた人はヤンキー見るだけで脅えてしまったり。で、見た目DQNのヤツは全部そんなんだと思ってうっかりケンカ腰に絡んだら実はいい人とかがたまに居たりしてね。


友達付き合いとケンカの話にしても、
今の時代の弊害があるのか、それとも年を重ねることでなかなか心を開きにくくなっていくのか、本当に相手と向き合うことが無くなっていったりね。




あぁ、ほんと難しいな。
本心というか、『物事の“本当”』が、どんなものかも分からずに衝突したりする出来事がある中で、『ただ水に流せばいい』だけでは無いのなら、どうすれば明らかになるんでしょうね。

それを 他者への想像力を以って推して知るべきなのでしょうか。

イヤなことしてくるヤツも、ホントはさびしいヤツなんだ とか思って?



夜麻みゆき先生が『物事の真実(事実)は一つで、解釈が多数存在する』というような主旨の発言をどこかでされてたような。(違ってたらゴメンです。)

争う相手同士、加害者と被害者 が、解釈を共有できることが解決なのでしょうか。


よくわかりません…。
また次回。

ブログ内リンク : “ブッダ 真理のことば 『第1回 生きることは苦である』を見た。”

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2011年9月19日 (月)

“【100分de名著 ブッダ 真理のことば】 : 『第1回 生きることは苦である』を見た。”

100分de名著 ブッダ 真理のことば 『第1回 生きることは苦である』を見ました。

以下、番組内容を大体テキスト化。

講師・佐々木 閑

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 『真理のことば=ダンマパタ』

ブッダが弟子たちのために悟りへの道を423の詩にまとめたもの。

苦しみには2つある。
1つは今度の震災とか『避け難い苦しみ』
それに対して、ダイエットしたいのに という、欲望から出てくる苦しみ、自分の心が生み出す苦しみ どちらの苦しみも なんとか消したいと考えるわけです。

◎端的に表す物語―――。
大富豪の娘だった、パターチャーラーの物語。
パターチャーラーは身分の低い召し使いと駆け落ちし、流れ着いた土地で子どもを生みました。
2人目の子どもを身籠もった時、母が恋しくなり 実家へ帰ろうとしました。しかし、その道中 夫がヘビに噛まれて死んでしまいます。
―――不幸は続きました。生まれたばかりの赤ん坊を鷹にさらわれ 上の子も川に溺れて死んでしまったのです。パターチャーラーは嘆き 悲しみました。その悲しみは正気を失うほどでした。さらに豪雨で実家も流され、パターチャーラーは天涯孤独になってしまうのです。
そんな彼女にブッダが声をかけました。
案じることはありません。この生死の輪廻において、あなたのように 子どもを亡くして嘆き悲しむ 人々の涙は四大海の水より多いのです。

佐々木:「ブッダはパターチャーラーに向かって 生き方を変えよ と言います。パターチャーラーはこれ以上 不幸になりようもないくらい不幸なわけです。 で 本来ならば ひょっとしたら命を絶つかもしれない。 そんなときにブッダは『命を絶つ必要はない』パターチャーラーはそこで 釈迦の教えに従って出家をして尼さんになるんです。最後は本当の安穏と幸せの中で一生を終えたと。」

【ブッダが説いた 生き方とは?】

“ものごとには発生と消滅がある
 ということを理解せずに
 百年生きるよりも
 発生と消滅の原則を見通しながら
 一日生きる方がすぐれている”
    真理のことば 一一三

佐々木:「これは 物事 すべてのものは、生まれ、そして消えていく。従って その中でいつまでも変わらずに 永遠に存在し続けるものは無い ということです。これを“諸行無常(永遠に変わらず 存在するものはない)”といいます。
    すぐれている というのは ここに安楽の道がある ということです。  世の中の、本当の姿を見ないで生きる ということは つまり 間違ったものの見方で生きるということですね。」

佐々木:「ブッダが考えたのは、この世の中が全て苦しみであるならば、そのたくさんの 無限にやってくる苦しみを 自分がしっかりと受け止めて、それを苦しみだと感じないような自分を作らなければならない。つまり 自分自身を変えるということが、ブッダの考えた一番の目的なんです。」

佐々木:「例えば、今回の震災を考えてみましても、現実は 私たちの思いとか 夢というものに関わりなく、粛々と進んでいくわけです。それがそれほど違わないときには私たちってあんまりその食い違いを感じませんけども、今回のように衝撃的なカタチで襲いかかってきたときに、そのあまりのギャップが、我々に恐ろしい苦しみを生み出すわけです。」

“諸行無常を知って 生きよ”

《ナレーション》
世の中は、自分の思いとは関係なく、常に移り変わる。だから苦しみが生まれる と ブッダは説きました。さらにブッダは、その苦しみを解決する方法についても言及しています。

“仏と法と僧に帰依する者は
 四つの聖なる真理
 すなわち「苦」と
 「苦の発生原因」と
 「苦の超越」と
 「苦の終息へとつながる八つの聖なる道」とを
 正しい智慧によって見る”
     真理のことば 一九〇 一九一

佐々木:「仏・法・僧という、三つ合わせたものが、仏教という意味なんですね。 仏教に従う者は この4つの真理を土台として ものごとを考えていこう と。」

【ブッダが説いた 4つの真理 とは?】

四聖諦(ししょうたい)
・苦諦 ・集諦 ・道諦 ・滅諦

・苦諦…世の中は「苦しみ」で満ちている。例えば老化にしても、それは止められない。苦しみを生む原因は 私たちの中にある。

・集諦…「苦しみ」の原因は煩悩である という真理。

・道諦…煩悩を消したときに「苦しみ」が消える。

・滅諦…じゃあどうやって消すのか という「苦」を消すための実践の道を説いたもの。

解決方法には八つの道があるという。それが八正道。

・正見 ・正思惟 ・正語 ・正業
・正命 ・正精進 ・正念 ・正定

・正しいの基準、意味というのは?
佐々木:「たとえば 道徳的に正しいとか、法律に則ってるから正しいとか、ここで言う“正しい”というのは、正しく、世の中のありさまを見る ということです。
    私たちは普通は 世の中のありさまを正しく見ていないんです。その理由は何かというと、いつも 自分を中心に考えるから。自分がこの世の中心にあって、その周りに 私の世界というのがあって、 その周りで色んな世界が動いていて、私こそが世界の中心であるというような錯覚 を持って世界を見ているわけです。なぜならば 世界は私のことなんか何も考えずに動いていくからですね。」

佐々木:「こん中に 突拍子もない修行とか荒行とか いわゆる苦行は無いし。出家しなくたって日常の中の心構えでこれを続けていく。それを一歩ずつ積み上げていく トレーニングの中で、私たちは少しずつ心を変えていくことが出来る。
    それはつまり、煩悩に支配された日常のものの考え方を少しずつ是正していく。  そして本当の世の中のありさまが正しく見えたときに 我々は多くの苦しみから解放される。」

“日常の中で正しく見ることを トレーニングする”

【自我を見つめたブッダ】
「ブッダは普通の人間ですが、どうやって人間の苦しみから逃れることができるかマジメに考え、そしてそれを集中的に修行することによって、その道を見つけだし、もっと大事なことはそれを私たちに教えてくれた。」

・ブッダの半生。
釈迦族の皇子ゴーダマシッタールダとして 16歳で結婚し、子どもももうけ 何不自由なく暮らしていました。
しかし あるとき王宮の外で人々の姿を見たとき彼の運命を変えました。それは人生が 生・老・病・死 という苦しみに満ちていることを知ったからです。それはやがて 自分の身にも起こることに気がつきました。シッタールダは苦しみを克服する術わ得ようと、29歳で出家を決意。修行しながら深く思索を続けました。そしてついに35歳で菩提樹の下で悟りをひらき、目覚めた人=ブッダ となったのです。

「長い修行が終わって、悟りをひらいたときのブッダはたいへんな喜びを感じたわけです。それがここに 歓喜のことば ということで……」

“私は 苦しみの基盤である
 「自分」という家の作り手を
 探し求めて 幾度も生死(しょうじ)を
 繰り返す輪廻の中を
 得るものもなく さまよい続けた
 何度も何度も繰り返される生は
 苦しみである

 だが家の作り手よ
 お前は見られたのだ
 もう 二度と家は作ることはできない
 その垂木はすべて折れ 棟木は崩れた
 心はもはや 消滅転変することなく
 渇愛の終息へと到達したのだ”
     真理のことば 一五三 一五四

佐々木:「家というのは“私”が “私という世界”をつくっている というものです。  私という世界の周りに、私の持ちものだ “私”を中心として組み上げられた 私の 自我の世界。これが 家 というものです。」

瀧口:「家というのは、自分の基準でこう 世界を見てつくり上げてしまった虚構のような世界を、家というふうに…」
佐々木:「そうです。誤った自我意識ですね。
    “繰り返す輪廻の中を 得るものもなく さまよい続けた”というのは、『そういう 私の世界は本当はどこにあるんだ 私中心の世界はどこだ』ということを探して求めるということです。 しかし 見つからない。探しても見つからないから それは苦しみの連続になるわけです。 ところがブッダは自分の体験によって、虚構の世界だということに気がつく。  気がついた途端に、今まで作ろうとしていた “家”の構造は いっぺんに崩れてしまいます。それが“その垂木はすべて折れ 棟木は崩れた”
    気がついてみると、今まで探して求めていた“私”という世界は もう無いじゃないか。そのときにはじめて、“無いものを探していた その苦しみは消える”。  そして本当の安楽がくる。これが釈迦が長い修行の結果 到達した境地なんですね。」

瀧口:「日常に置き換えると どういうことが言えますか?」
佐々木:「たとえば私が、お金持ちだとすると、このお金持ちの状態は ずっと続いていてほしいと思うわけです。
    そうしますと、その世界を邪魔するものが出てきますと それに対してたいへんな憎しみと、そして苦しみと。さまざまな妬みや、そういうものを生み出している そしてそれが現実社会との間で 必ず食い違い、齟齬を起こしますから それが苦しみとなって表れる。こういう その自分中心の世界から苦しみが生まれてくる というのが、ブッダが考えた世界観なんですね。」

“「苦しみ」は自分中心の世界から生まれる”

佐々木:「今 言ったようなこの話は 世界中の全ての人に当てはまる話では無いんです。つまり心の中に苦しみを感じて 今 生きている人生がそういう苦しみに満ちているということを自覚した人にだけ役に立つ考え方です。 だからブッダの言葉は『心の病院』。待っているわけです。自分の方から出かけていって健康な人を引っ張りこんでくる病院なんてのは無いですよね。苦しんでいる人がやってきたときには それを全員引き受けて、まじめに治療する。
    今回の震災にしても、国全体が一つの病気を抱えた重病人になったんだと思います。みんなが心の中になにか こう 苦しいわだかまりを持って生きている。  でその病気はなかなか消すことができないから 物理的に治すことはできないかもしれないけど しかし病気になりながらも、その病気を抱えながらしっかり生きていく道がある ということですね。それがブッダが我々に教えてくれたことなんです。」


◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎



というかブッダ関係は、最近 アルボムッレ・スマナサーラ氏の本を読んでるから、大体の知識に関しては補完できてるつもりなんですけど。。。


パターチャーラーの話に関しては、先日 アルボムッレ・スマナサーラ氏の著書、『心は病気』を読んだときにもあったものなので、すんなり入ってきましたし。

それでも、震災のこととかをね。こういう『避け難い苦しみ』を、どう受け止めていけるか っていうコトは、それが肯定のためで大切なんだろうなと思っていてもなかなか心は変わらない。
…これはニーチェの永遠回帰にも言えるけどね。苦しみも繰り返す …っていう点では。


この番組によって、スマナサーラ氏とは違う語り口で得られるものに期待しつつ。
また次回。

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2011年9月 6日 (火)

“【100分de名著 ニーチェ・ツァラトゥストラ】 : 『第4回 現代に超人は可能か?』を見た。”

100分de名著、ニーチェ、ツァラトゥストラ 『第4回 現代に超人は可能か?』を見ました。

1~3回までは見てなかったんですが、今回初めて見ました。

MC:堀尾正明、瀧口友里奈
講師:西 研
ゲスト:斉藤 環

以下、番組内容を大体テキスト化。↓



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19世紀 ドイツの哲学者ニーチェ。
当時のヨーロッパの価値観を根底から疑い、人間の生きる意味を問い続けた思想家。

ニーチェは主人公『ツァラトゥストラ』を通して自らの思想を説きました。
『神は死んだ』
ツァラトゥストラはキリスト教に基づいた価値観が崩壊していることを人々に知らせます。そしてこれまでの価値観に頼ることなく 創造的に生きる存在……―――“超人”を理想としたのです。
超人になるための最大の関門 それは、苦しみも含め 同じ人生が何度でも巡ってくるという、“永遠回帰”を受け入れることでした。

ニーチェは人間が生を肯定するにはどうすればよいかを徹底的に考えぬきました。


西研:「第1回から第3回まではツァラトゥストラの物語と、そこに込められたニーチェの哲学を読み解いてきたんですけども、今日はですね 現代を生きる私たちに、このツァラトゥストラの思想がどう役立つか ということを今日はテーマにしていきます。」



スイスのシルス マリヤにニーチェハウス(ニーチェ記念館)がある。ニーチェが滞在して執筆した部屋がある。
ツァラトゥストラは当時 人々の理解を超える内容から、ほとんど見向きもされない書でした。最終巻に至っては、わずか40部ほどニーチェが自費出版しただけだったといいます。

その後ニーチェは精神を病み、思想家としての活動が全く出来なくなります。
 
病に倒れた晩年から20世紀にかけて、ニーチェの思想は次第に認められるようになります。
19世紀の古い価値観を打破したいと考えたヨーロッパの新しい知識人が、ニーチェに共鳴し始めたのです。
ところが1930年代になると、ナチスによってニーチェの思想が歪められました。“強者が弱者を支配することを肯定する思想”と誤って解釈がされ、ユダヤ人迫害の正当化に利用されたのです。

第2次大戦後、ニーチェに再び光が当てられます。
近代の価値を転換する思想として、特にフランスの哲学者や批評家などに注目され、
《脱構築、蕩尽(とうじん)の哲学、ポスト・モダンの哲学、存在論》
戦後の新たな思想の源流となったのです。


 
【現代の私たちの生き方に ニーチェの考えをどう活かしていくか。】

堀尾:「斉藤さんは ツァラトゥストラという本、どのように捉えてらっしゃいますか?」
斉藤:「学生時代に手に取ったのですが、学生時代というのはひねくれたところがありまして…。アポロン的な 理性的な哲学じゃなくて、もうちょっと享楽的なところというか…いわゆるディオニソス的なというか。そういうところに魅力を感じたというカタチで入っていきました。」

アポロン的…理性的、論理的

堀尾:「人間的に物事を考えよう―――…っていうのが…」

ディオニソス的…感情的、享楽的
 
斉藤:「そういったものを享楽的に捉えるといった…
    ニーチェは晩年 精神を病んだりとかですね、ちょっとこう狂気を孕んだところが…まぁ、まだ…免責の余地から… ちょっとこう ニュアンスを感じる あとづけかもしれませんが。
    そういうのに我々は惹かれてしまう という困った性癖がありまして。(笑)  狂気に至るまでの天才と紙一重というかですね、そういう発想で魅されてしまうというのがたぶんあったと思いますね。」

堀尾:「斉藤さんがツァラトゥストラの中から、これぞ名文!というものを―――。」

斉藤:「“末人(まつじん)”という…“ラストマン”という人々にかかわるものの描写が――…。」


 われわれは幸福を発明した―――
 「末人」はそう言ってまばたきをする。
 彼らは生きるのにつらかった土地を去った。
 ぬくもりが必要だからである。
 さらに彼らは隣人を愛し、隣人に体をこすりつける。
 ぬくもりが必要だからである。
                  「ツァラトゥストラの序説」より

斉藤:「先ず 非常に毒のある表現といいますか――…。
    まず“まばたき”をするとかですね――いかにも動物的というかですね、小人物というかですね…、すごく軽蔑される存在という印象を与えてくれてますね。単なる快感ですね。 緊張を解放するだけの――リラックスをひたすら目指すという。
    “ぬくもり”と書いてあっても 決していい意味ではなくて、単純にこう ゆるい世界でね、まったりと生きたいというですね。そこだけ聞くとといいように聞こえますけど、まぁ、超人のように自分を鍛えていくような、きっかけはそこには無いわけですよね。」

堀尾:「これは今の世の中と通じると感じるところはありますか?」
斉藤:「うん。 やっぱりある種の予言の書というか、やっぱ今の人の一部の人ですけどね。在り方が限りなく末人的なライフスタイルに近づきつつあるんではないかと。」

堀尾:「先生、当時からこの末人のくだりというのは好きだったんですか?」
斉藤:「これを好きというと誤解を招くおそれも…(笑)」
堀尾:「好きというか 気になったというか…。」
斉藤:「なんというより、まず自分のことを言われてる感じというか。おれはいずれこうなっちゃうんじゃないか、っていう そういう懸念を一番青春期に感じました。」
堀尾:「当時の学生はそうやって読んだのかもしれませんね。」
斉藤:「そうかもしれませんね。」

【それぞれの”超人”論】

堀尾:「“超人”という思想、お2人にとって超人とはどういうことなのか。」

西研:「超人というのは、究極ポジティブな存在ですよね。常にクリエイティブに生きていく。ルサンチマン(恨み、妬み、嫉妬の感情)なんか関係ないっていう。そういう存在ですよね。
    超人を目指す ってニーチェは言うんだけど、ぼくはねぇ、あの、よろこびの方向に向かっていけ、とか、高めあっていけ というメッセージはすごくいいと思ってるの。でもニーチェの書き方は、一人で頑張れみたいなところがあるんですよ。うん。一人でがんばって強くなる。ストイック。
    でも、人が本当にクリエイティブになるときってどうなんだろう。ニーチェの言うクリエイティブですよね。 それってお互いが自分の感情を出して、それをちゃんと受け取った とか、ちゃんと返ってくる そういう信頼があるところで、クリエイティブというのはものすごく出てくると思うんですよ。
    たとえば まぁ、古い話だけど、ビートルズのジョン・レノンとポール・マッカートニーが曲作ってるときに、も-最高だった ってこと言ってるんだけど、お互いの間でどんどん響いてね。コールアンドレスポンス。 こっちが呼べば向こうが応える。そう 刺激し合って ガーっと高まっていく。そういうところにね。超人のほんとの具体的な形があるような気がするんですね。
    だから お互いの感情をちゃんと交換し合うとか、そういうつながりの中で超人を目指す。うん まぁ、言わばしなやかな超人。そういうイメージを持ってた方がいいような気がします。」

     “しなやかな超人”を目指せ



斉藤:「あの、私は専門がひきこもりなんですけども、私は超人というのは完璧なひきこもりのことだと思います。ちょっと西先生の真逆みたいな感じになっちゃうんですけど。
    ひきこもり ってのは仕事もしないし、人間関係も無いし、業績も無いし。そういう自分を全肯定できるかどうか と、そこが超人の非常に重要な条件なんじゃないかと。」

瀧口:「ひきこもりの状態で良い っていうことなんですか?」
斉藤:「そうです。 そのひきこもってる自分を、いかなる価値基準に照らさないで肯定できるかと。無根拠に肯定できること。」

瀧口:「なんか、仙人みたいなイメージが今ちょっと浮かんできたんですけども…。」
斉藤:「そうです。禅僧とか 仙人とか。」

西研:「ニーチェの思想のすごくいいところに、どんな自分が その失敗しちゃっても、その自分を絶対見捨てちゃダメなんだ。そういうこと言うんだよね。
    やっぱり自分が自分の最大の味方で、そこを肯定できなきゃいけない思想ってニーチェの中にありますよね。」

斉藤:「ただ 普段若い患者さんを中心にですね、接してて思うのは、ま それこそ ニヒリズム(「すべてのものは無価値である」とする考え方)じゃないですけども、否定が力を持ちすぎている。いじめにしても、ニートにしても、いわゆるロストジェネレーションと呼ばれる、まぁ、ワーキングプアなんかも含まれてますけどね。若い世代の…まぁ、意識の中にですね、肯定をする力が弱まっている気がするんですよね。   すごく危険……危惧しているところなんですよね。そういうとき この、とりあえず、自分を力強く肯定するところから始めよう という考えは、 すごく意味があると思いますし、臨床をやっていても……ま、人間関係でもいいですけど、何かちょっとしたキッカケでも自分を肯定することが出来るとですね、こもってた人が動き出す ってのはよくあることなんですよね。
    肯定感が最初にあると、医学的に考えてもですね、それが次の展開に繋がるという実例はいっぱい経験してきましたのでね。  なんとかそれを持ってほしいな と。願望も込めてですね。“究極超人”―――…。

    結局ですね、ひきこもってる人が抜けられないのは世間体を気にしたりだとか、世間のものさしに縛られてるから出れないんですよ。」

瀧口:「今、問題になってる ひきこもりというのは、自分自身を 自分のものさしで評価できないところが一つ問題に――…」
斉藤:「まさに仰るとおりで。社会的な基準だけに依存しているので、自分をどうしても肯定できないんですよね。ずーっと自分を否定しながら毎日を過ごしている。とても苦しいわけですよ。
    逆に 全部肯定できた瞬間に、自由になるんですよ。パラドックスなんですよね。それこそツァラトゥストラが山から下りたみたいに。肯定が完成したら こもってられなくなっちゃうんですよ。結果的に。」

堀尾:「多くの人と交わる ってことも、できるようになるわけですか?」
斉藤:「できちゃうわけです。しようと思ってするわけじゃないんですけど、ま、自然ななりゆきでそういうふうになってしまうというか。」

西研:「斉藤さんどうなんでしょう。世間の基準から自分を見てることで 苦しいし、外にも出られないけど、じゃあ 自分自身のありのままをね 全部肯定するためには――、実は「アンタそれでいいよ」と言ってくれる誰かがいらないと思うんですけど。どうです?」
堀尾:「それは精神科医の仕事なんじゃないですか?」
斉藤:「やー、我々が肯定しても、それは仕事になっちゃうんで――。なかなかそれを素直に受けてもらえなくなるんですけど。
    やっぱ承認の問題は大きいわけで。みんなが承認を求める時代になっているとも言えますから。承認してもらえて肯定する。という生き方が普通なんですけども、ここは敢えてニーチェ的に、 承認抜きで自分を肯定せよ。と。言いたいところなんですよね。とりあえず とっかかりとして です。


    “承認抜きで 自分を全肯定せよ。”




【ニーチェ 人生相談室】

瀧口:「あのー、私 今 大学生なんですけど、今 就職氷河期って言われてると思うんですけど、でも、それでも大企業に行きたい って人がすごく多いんですね。中小企業でももちろん魅力的なところ あると思うんですけど、やっぱり安定性とか、お金の面とかもあって、大企業に集中してしまって、それがさらに 就職氷河期を加速させてるんじゃないかって感覚もあるんですけど。   自分が本当にやりたいこと っていう――ニーチェの言う超人のように、今 こういうことがやりたいんだ って内側から溢れてくるようなものっていうのを、みんな見つけきれてない…なかなか。
    っていうのと、どうやったらそれを見つけて、こう“超人”みたいになっていけるのかな、 っていうところがあれば―――…。」


斉藤:「就活も婚活もそうなんですけど、どうしても比較の発想になっちゃうんですよね。こっちよりも こっちが大きいという。 こっちが安定している。福利厚生がいいとかですね。比較の話ばかりしていると、私は”末人”的になっていくというか。どっかしらで自分が置き去りになってしまう感じがするんですよね。
    で、精神科医として言うんですけも、精神分析的には、まぁ、人の正しい生き方というのがあってですね。それは何かっていうと、自分の欲望をあきあめないことなんですよ。最後まであきらめない。絶対譲歩しちゃいけないんですよ。これはもっとも正しいとされていて。
    ただ、一番難しいのはさっき瀧口さん仰ったように 何が欲しいか分からない というのが最大の難点なんですよね。すごく多い。だから自分探しは 自分の欲望探しで。結構難題なんですよ。    だけど、比較の発想をだんだん剥ぎ取ってですね、それをやめていけば、ひょっとしたらそれは見つかるんじゃないかと思ってるんですけど。
    やっぱり どっぷりと 受験のときからですね、その就職→結婚に至るまで、比較の発想に慣れすぎていると、欲望が逆に見えなくなってしまう懸念があるので、なんとかそこを一回リセットするようなですね、キッカケをですね 掴んでほしいなと思うんですけどね。」


西研:「ぼくもすごく共感ですね。
    やっぱり普通でなきゃいけないとかね、普通より もうちょっと良いほうがより良いでしょうけど、あの 根っこにあるのは「脱落したくない」っていう気持ちだと思うんですよ。「落っこちたくない」ね。
    世間並みのところから「損したくない」。そういうことばっか考えますよ。 それで就職――…だんだんうまくいかなくなったりすると、全世界から自分が否定されたような気持ちになってくるのね。わかりますよね 気持ちは。
    でも、ニーチェ的に言うとね、世間から評価される前に、どんなことやったら自分ワクワクするの? どれやったらオレ燃えられるかな? っていう、やっぱそこ考える必要があって。ぼくね、会社で自分のワクワクを実践するくらいに思わないとダメかもと思うわけ。それ理想論だけど。 でも やっぱり どうやったらワクワクできるの?っていうところから考え始めないと いけないと思うんですよね。」

瀧口:「「脱落したくない」っていうと、マイナスから始まっちゃう考え方になっちゃう―――…」
西研:「そうそうそう。その通り。」

堀尾:「ぼくね前回 ニーチェの『運命愛』っていうのを説明して下さったときに、要するにニーチェは 人生は全て運命であると。その運命を受け入れられれば、肯定できれば、こんなに喜びに満ちたものはない っていう考え方じゃないですか。   だからどんな障害があっても、それも運命で、それをプラスに考えられる っていうね。究極のプラス思考。 それから、今 たとえば ま、就職・受験に失敗した。それもプラスに導く何かがあるんだって思えれば すばらしいことですよね。」

斉藤:「肯定の考え方 いろいろありますけど、ぼくは 偶然を必然に感じられる才能だと思うんですよね。そういうキッカケとして ニーチェを読んでみるというのも いいかもしれませんね。」


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超 面白かったです。

たしかに、自己肯定感は、弱まっていると思います。
それは 安易に人と繋がることの出来るツールがあるから という、今の時代だからこそ、というのに限らないとも思いますが。

で、個人的に惹かれた言葉は、
『就活も婚活も、比較の発想』とかってくだりのところが。

そう、結局、ここなんですよ。“世間”とか“普通”とか“社会的”な…そんな価値観に無意識下で依存しているんじゃないか? ってコトがですよ。
でもね、仕事とか…そういうのは“誰か”の“社会的”な価値観に受け入れられてないと、成り立たないワケですよ。いや、勿論 そんなのは切り離して考えて然るべき…って視点もありますが、幼い頃から生存のレースに乗せられてる人間にとっては、生産と消費活動を行わないなんていうのは、社会から隔絶された存在でゴミ同然なんだって思えるんですよ。

社会の枠組みで生きることが、生きることを肯定する全財産みたいな考え方になってしまっていて、だから誰かに,何かに必要とされていないと、自分が肯定できてない。


これがあまりに多い。
というか、これが多分全てだと思うんです。
すべての生きてる人は。


若い人について 主にピックアップされてたような気がしますけど、私自身、色んな年代の方とお話しした経験からですが、そんなものは関係ないと思うので。


『自分の欲望をあきらめない』とありましたけど、これもね、それまでの、比較の世界の価値観がインストールされていて、たとえば、自分が何かを好きなことも、「多くの人がこれを好きだから好き」というのとか、また逆に「マイノリティだからこそ、好き」とか。その「『マイノリティが好き』なオレが好き」という考えもあったりとか。
自分の感情が、誰かの立脚した価値観に依存してるから構築されたんじゃないのか? とかをね。考えたりするんですよ。

で、西さんと斉藤さんは“しなやかな繋がり”とか、また“ひきこもり肯定”とかありましたけど、本質は全く同じだと思うのです。
西さんの場合は、他人と真ッ剣に関わること。(感情の交換をすること。お互いの思いを表出し合うこと。)で、斉藤さんの場合は、徹底して自分に向き合うことだと思うの。

結局それは“自分”の根源・源流を知るキッカケとなるのでしょう。

ただ、価値観の合う友人・知人となぁなぁな語り合いをするのでもなく。
ただ、自分の価値観を正当化するためだけに殻に篭って他人を否定してばかりでもなく。

(自分は自分で完璧で在るし、他人は他人で完璧で在るのだから。)

(けど、他人の完璧はなかなか認めたくない感情が出てきてしまうと思うけどね。それは自分の完璧を肯定しているからこそ なのかもしれないけど。…このあたりが難しいからこそ、おそらくナチスによって歪められた部分があるのかもしれませんけどね。『支配が正しい』という誤ったことがね。)

全ての価値観を解(ほど)いて、確立した自分を肯定すること。
これは難儀な道のりかもしれませんけどね…。

私自身としては、運命論みたいなものはまだ肯定できない、というか疑問なので。
マイナスな出来事自体をどう捉えるか という問題(不慮の出来事による死や、心身に大きな傷を負わせるような出来事)が起きたとき、これも“運命”だと、“必然”だと受け入れられるかどうか …というのは自信が無いですので。。。
永劫回帰が苦しみも含めての肯定だから、多分 “私”が苦しみや不都合を肯定出来てないのかな。被害者感情を持ちたい(自分の優位性“だけ”を常に考える)からかもしれないけど。
(…どうしても こういった場合『たられば』を考えてしまいますから。だからニヒリズムになってしまうと思うんですよ。全て無駄・無価値かと、ね。)

これを超えたら、“超人”に なれるんでしょうかねぇ。

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2011年8月27日 (土)

“【金曜ロードショー】 : 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 TV版』を見た。”

2011.08.26.O.A.

金曜ロードショーで、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 TV版』を見ました。

内容自体は映画館でも観ましたし、Blu-ray買っても見ましたので、特に触れませんけど、


本編112分(DVD時間)あるものを2時間のテレビに(CM入りで)まとめる…ってよくやったなー。
3号機事故から『男の戦い』までとか畳み掛けるような展開だったなー。(もともとだっけ…。)

見てて今さら気付いたけど、海洋生物見に行ったトコでアスカがやってたゲームって、ワンダースワンだよなー。(起動音が。…つかTV版見るまで何とも思わなかった…。)



DVDのver.が、2.22で、今回が2.02' 。 やっぱ色々カットしてるからかな。


エヴァはやっぱ見てて楽しいなー☆


そして予告では『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』が2012年秋に公開予定と!

1年後…!  ………!!

……。

たぶん延期はするだろうからそれは覚悟した上で。
2013年春までには観れるかなー。

てゆーか主題歌担当の、宇多田ヒカルが、人間活動から復帰してくるのと丁度いいタイミングになるんじゃなかろうかー…。

エヴァTVシリーズの舞台年代の2015年までには完結するかなぁ…。

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2011年7月15日 (金)

“【映画】『鋼の錬金術師 嘆きの丘(ミロス)の聖なる星』を観た。”

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『鋼の錬金術師 嘆きの丘(ミロス)の聖なる星』を観ました。


前作のアニメシリーズの完結編、『シャンバラを征く者』も映画館で観たんですが、今回も劇場まで足を運びました。

…まぁ、入場特典で、『鋼の錬金術師 11.5巻』が貰える というものも大きかったんですが。

(以下、今回の記事はネタバレを含みます。)


























内容についてですが、もう最初っからね、エドによる、
「アル行くぞ!」
っていう予告映像でもお馴染みのあのセリフを聞いただけで感動してしまったんですけど。(苦笑)

冒頭からアクションばかりですね。この前の『MAG・ネット』で流れてた列車の上でのバトルシーンとかやっぱ良かったですね。
列車が交錯して視点が変わっていくトコとかですね、あのシーンではエドと戦ってる相手のあと2人の素性が分からない状態っていうのもね。

アクションシーンはこの、外での列車の上でのバトルもだけど、谷の中の洞窟の中での内部でのバトルシーンもね。閉所ならではのバトルも良かった。

っていうかホントめまぐるしいアクションシーンの連続で、日常描写は殆どないですね。
序盤の中央でのシーンとか、谷でゴンじいがオートメイルに興味を持ってた辺りとかそれくらいだったな。
アームストロング少佐がその序盤のシーンに少し出てただけだけど、仕草や存在感が少佐そのものなので、出番少なくても印象には残るよね、あれは。(中央に来たウィンリイに挨拶するトコとか。(笑))

映画のオリジナルヒロインのジュリアの兄が、見ていて え? って思うトコもあったんだけど、複線とかはちゃんと張って消化されてるんですよねぇ。
後半の物語が佳境になってるシーンで、ばったばったと人が死ぬわ、『聖なる星』生成してる様子のエグさはハガレンらしいというかなんというか。

そしてアルフォンス、ヒロイン(ジュリア)救いすぎ。(笑)
いくら鎧だからって、あまりにもナイトしすぎ。それはジュリア惚れるよ。(笑)


ジュリアの兄妹の過去のシーンで、イヤリング作ってるとこ…なんか緑色の光が光ってる感じんとこはジブリ…つかラピュタっぽいなー、なんて見てたり。
(あとでパンフレット読んだら、監督の村田さんと作画監督の小西さんがジブリ出身なのね。)


ストーリー展開全体としてはすごく良かった。やはりバトル描写がね。
展開の終盤部分は、んん? って思うところもありましたけど。
(溶岩のあたりとか。ジュリアが力を使えるようになってからね。錬金術ホント万能。)

ただラストは良かったのでわ。この足で歩くこと とか、エドがジュリアの行為を認めないって言ったところとかね。あぁ言うのエドですよね。


パンフで脚本を担当された 真保さんの言葉にあるように、アメストリスのいつもの顔ぶれの出番が殆ど無かったのは残念だけど、仕方ないですよね。



あとは、まー、やはりね、パンフレットで釘宮さんのトコにも書いてありましたけど、アルフォンスが鎧姿でいる っていうのがね。それでこの映画のエンディングが、“まだまだ旅は続いていく”っていう終わり方をしてるのが良かった。
…当然エピソードは単行本10巻前後に組み込まれた話だから当然なんだけど、一度大団円を迎えた作品のスピンオフをこういった視点で、で、イチ視聴者・読者はもうこの物語の終わりを見てるワケですよ。その“鋼の錬金術師のエンディング”を見たあとで新作を見れるというのは嬉しいものですよ。
(それは先日のガンガンに載ったプロトタイプ版も同じことですが、今回の映画の終わりのほうが続いてる感を感じられたなー。)

やー、面白かったですよ。バトルシーンの連続だし、後半は謎が明らかになるから(ジュリア兄の件がね)目が離せなかったですよ。








パンフレットの内容ですが、かなり充実していてビックリ。
っていうーか、フツーに荒川先生の漫画が載ってるとは思わなかった。
制作者側のインタビューもたっぷりだし。

11.5巻の方もやはり漫画がステキなのですが、さらにはカバー裏もいつも通り。(笑)
スタドラ?(笑)

やー、まだまだ鋼が終わってないですね。
荒川先生には鋼の続きとかは望みませんから 是非またスクエニで執筆を…。(前も書いた。)

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