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2011年10月 3日 (月)

“【100分de名著 ブッダ 真理のことば】 : 『第3回 執着を捨てる』を見た。”

100分de名著 ブッダ真理のことば 
第3回『執着を捨てる』を見ました。


MC 堀尾 正明
アシスタント 瀧口 友里奈

講師 佐々木 閑


以下、大体テキスト化↓


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佐々木:「前回は“うらみ”という一つの煩悩でしたけども 今日はもう一つの大きな煩悩である、執着というものについて お話をしたいと思います。」

堀尾:「物とか、人とか 『自分のものだ』って思う瞬間 って多いですよね。
    これはいいことなのか 悪いことなのか ってことですよ。」

佐々木:「執着といっても たとえばですね、ブッダのことばを信じて、その道を進むというのも、ある面から見たら執着ですね。
    しかし世の中には愚かな執着があって、それが苦しみを生み出してしまう。そういうものがあるんですね。今回のブッダの言葉にしても、真理のことばの中に 執着を示す物語があるので ご紹介します。」


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美しさに執着していた王妃に ブッダはそれよりさらに美しい女性の幻影を見せるが、その幻影が年を重ね 老いて白骨化していった。
ブッダは、 人間の肉体は永遠に続くものではない。だから美しさに執着しても、意味が無いと 王妃に悟らせた。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――


堀尾:「そうはいっても女性は年齢を重ねても美しさにこだわるんじゃないですか?」
瀧口:「そうですよね。女性としては美しさは永遠のあこがれですから。」

堀尾:「ただやはり、確実に年老いて、最後は死ぬという現実は紛れもないわけですからね。」
佐々木:「今の場合、王妃は美しさというものに執着したわけです。しかしその執着の美しさというものは、前回も申しましたように“諸行無常(世の中の全てのものは移り変わっていく)”ですから、いつまでも続くものではない。 いつまでも続かないものに、いつまでも続いてほしいとして執着した。それが現実との間に全然違うギャップを生み出してしまう。それが苦しみの元ですね。
    逆に言いますと、美しさというものは 今のVTRのように 必ず衰えていくものである ということが、最初から理解できていたならば、その美しさに強く執着することは無かったハズです。そこに苦しみが生まれるか、それか苦しみが無いか。その違いが表われてくるわけですね。」


【苦しみを生む執着とは?】

“貪欲(とんよく)に染まった人は
 流れのままに押し流されていく
 それはまるで
 蜘蛛が自分で作り出した糸の上を
 進んでいくようなものだ
 一方賢者は
 その貪欲を断ち切り
 執着することなく
 一切の苦しみを捨てて
 進んでいくのである”
      真理のことば 三四七


佐々木:「貪欲――…執着に染まった人は ものの見方が一つに染まってしまいます。例えば今の話のように、美しさが私の全てだ と思った人は美しさだけしか目に入らなくなってる。これが『流れのままに押し流されていく』。 自分が執着したことに、自分が流されていくわけです。自分がつくった道を 自分が流れていく。これが、蜘蛛が自分で作った巣の上 そこしか歩けなくなってしまう という喩え。
    『一方賢者はその貪欲を断ち切り』そうすると、一つの道しか歩けなかった人が自由になって 貪欲から生まれてくる執着から生まれてくる苦しみを捨てることが出来る。そういう意味なんですね。   私たちは色んなことに執着しています。この執着がそれぞれ色んな苦しみを生み出している。それが、私たちの普通の生活だと言ってるわけですね。」


《ナレーション》
 執着は あることにとらわれるあまり、自分の人生を縛りつけてしまいます。執着することで選択肢を失い、自分自身を追い詰めてしまうのです。 ブッダはそうした執着は 自分の周りにいる人にまで及ぶといいます。


佐々木:「その執着にもう一歩踏み込んだ 真理のことばがあるのでご紹介します。」

“愚かな人は
 「私には息子がいる」
 「私には財産がある」などといって
 それで思い悩むが
 自分自身がそもそも
 自分のものではない
 ましてやどうして
 息子が自分のものであろうか
 財産が自分のものであったりしようか”
      真理のことば 六二


佐々木:「これは『私に息子がいる』という気持ちは問題ないんです。これは当たり前のことです。『私には財産がある』これも当然のことです。しかしながら問題は、『私には息子がいる』だからこの息子は私のものだ …というふうに所有の気持ちですね が起こると、息子の人生にまで執着が起こってくるわけです。
    ですからこの子どもがたとえば、自分のあとを継いでほしいと思って、自分のあとを継いでくれと頼んでいるのに 息子は『私は自分の道をいきます』と いってしまうと、何が起こるかというと、非常に辛い苦しみと、そして場合によってはその息子に対する憎しみが起こります。
    それは何故かというと、もともと私と息子は別個の人格で、一人の独立した人間があるのに、それを間違って 息子は自分の所有物だから 自分の好きなように動かせるんだ・生きるべきだ というふうに 自分の思い通りに生きるべきだと考える、その考えに間違いがある。これは執着が生み出す苦しみ。財産についてもそうです。
    そういうことで我々は、自我のまわりに自分の所有する世界というのを無理矢理つくって、そしてそれを そのまま抱えて生きていこうとするから苦しみが起こる。という そういう話ですね。」


堀尾:「しかし親になったらこうしてほしいとか………塾に通わせ …って気持ちが」

佐々木:「将来この子(自分の子ども)は、自分一人で生きていくのであって、人生にまでは干渉しない という思いが必要です。 それで授かった子どもですから。大事に育てて大人にするのが親の義務。しかしその義務を越えた先にあるのが子どもの人生だ。こう思うなら さっき言ったような苦しみは起こらないですね。」


《ナレーション》
 子どもまで自分の所有物だと思い込み、自分の思い通りにしようとする。執着は自分勝手な思い込みを生むと ブッダは考えました。そうした執着にとらわれないためには 自分自身を変えるしかないとブッダは説きます。

堀尾:「『自分自身がそもそも自分のものではない』というところをもう少し解説して…」

佐々木:「それはですね、自分自身というものが最初からあって、不変でいつまでも続くものであるならば それは素晴らしいことかもしれませんが、“私”というものは、今いる“私”も、それからその先にいる“私”、これはみんな別ものです。どんどん変わっていってしまう。ただ、様々な要素が寄り集まったところに、今“私”というものが仮に存在してるだけであって、『これが私です』という実態は何も無いんだ と。それなのに“私”というものにしがみつくと、これも同じように苦しみになる。」


《ナレーション》
 人間を構成する要素である肉体は 永遠に続くものではなく、いつかは衰えていきます。そのため、自分の姿に執着しても意味がありません。 ただし、心は衰えることがなく 鍛えることが出来る と ブッダは説きます。執着にとらわれない柔軟な意思を持ち、将来の道筋を決めていくことが大切なのだとブッダは考えたのです。


佐々木:「あくまで“私”は要素の集まりなんだけど、この中に今の私を自分が変えていくことによって、将来の道筋を決めていく という意思作用。それも、その“私”の作用の中にあるわけです。だからこそ仏教は宿命論ではなくて、今の自分の努力が、この先の自分を決めていく という 修行の宗教になるわけです。」



【意思を持って生きるとは?】

佐々木:「ブッダは執着というものを非常にこう よくないことだと。煩悩の中でも特に大きな煩悩だと。したがって驚くべきことに ブッダは、自分の教えにさえも終着するな というふうに。 それを示す『いかだのたとえ』という話がマッジマニカーヤというお経にありますので、ちょっと紙芝居でご説明します。」


佐々木:「ある旅人がいまして、向こうの 遠くの町まで出掛けていく その旅に出たんですが、その途中に1本の大きな川があって それはとても歩いて渡れないような川なんですね。



    そこでこの旅人はどうしたかというと、何とか川を渡ろうと思って 先ず そのへんの木を切って、渡るための船をつくる。この場合はいかだを作ったわけです。





    そしてそのいかだに乗って、まぁなんとかこの川を渡りきって、

    そしてそこでですね、ブッダは問いかけるわけです。『さぁみんなどう思うかね。この旅人は、もう川を渡りきってしまった。この大きないかだを、そのあとも頭に乗せて目的の町まで運んでいくと思うかね』こう尋ねるわけです。 いかがですか?」




瀧口:「そうですねー……これは置いていきますね。」
堀尾:「そうですか。僕 持って行きますよ。」
瀧口:「え!? 持っていきますか!? ほんとですか」
堀尾:「せっかく一生懸命つくったんだし、例えば 雨傘・日傘にもなるし、オオカミとか来たら…」

瀧口:「でも、堀尾さん、重たいですよ。頭の上に乗せちゃうんですから。」
堀尾:「もったいないよ。」

佐々木:「意見が分かれましたね。(笑)
    たとえばこれ、仰ったとおり重いです。それでこれを担いでいく前に、もちろん体力消耗して 倒れてしまったら一番おおもとの目的、つまり『向こうの町まで行く』という目的が、それでもう挫折してしまう。つまり 自分が持っている、大事なものだと これが大切だと思っている いかだの所為で、自分の人生が挫折してしまうということもありうる ということです。

    ここで言う“いかだ”というのは ブッダの教えを喩えています。この川は向こう岸に渡る つまり 彼岸に渡る。これは悟りの世界に渡ることを意味していますから、そのためのいかだですから これはブッダの教えです。」

堀尾:「ブッダの教えを置いていきなさい ってことを言ってるんですか」
佐々木:「渡ってしまったら もう必要ない ということです。」

堀尾:「いかだを自分で作って それを使って向こう岸に渡れたわけです。成功したわけですよね。成功体験をもある意味 あなた自身にとっては無意味なものになってしまうよ と。」

佐々木:「そういうことです。その場その場において、一番大切なものを選びとっていくべきであって、過去にそれが自分にとって大事だったとか、それでうまくいったとかいうものは 今の自分にとっては何の意味も無いです。」





佐々木:「それではこの話と関連しまして、ブッダが亡くなる直前に 遺言として語った言葉がありますので、それをちょっとご紹介します。」

《ナレーション》
 45年間伝道につとめ、80歳となったブッダ。ある村で重い病に侵されてしまいました。
病に苦しむブッダを見て、弟子たちは ブッダが亡くなったら あとは誰を頼りにしたらいいかと心配しました。それに気付いたブッダは弟子たちにこう語りました。

“自らを灯明(とうみょう)とし
 自らをたよりとして
 他をたよりとせず
 法を灯明とし
 法をたよりとして
 他のものをたよりとせず
 生きよ”
     大パリニッドナ経

 これはブッダが弟子たちに説いた 最後の教えで“自灯明 法灯明(じとうみょう・ほうとうみょう)”と呼ばれています。

佐々木:「この教えはですね、ブッダの最後の旅を語る大パリニッドナ経というお経の中に出てくるもので この“自灯明 法灯明”というのは有名なブッダの遺言として、今でも伝えられているものです。
    その意図がわかるものがありますので、それをご紹介します。」

“自分の救済者は自分自身である
 他の誰が救ってくれようか
 自分を正しく制御してはじめて
 人は得難い救済者を
 手に入れるのだ”
      真理のことば 一六〇


佐々木:「さきほど“自灯明 法灯明”という言葉が出ましたが これは自分を灯明にせよ 法を灯明にせよ、つまり 灯明というのは自分が亡くなったあとに誰を頼りにしたらいいか、何を頼りにしたらいいか というランプですね。暗闇を歩く。
    で、それは自分であり、法である といいます。自分というのは修行者本人。そして法というのは これはブッダが説き残した教えです。つまり自分でがんばっていけ と、こう言ってるわけです。それがこの詩の意味にも表われてきます。『自分の救済者は自分自身である』その通りです。で、『他の誰が救ってくれようか~手に入れるのだ』。 自分の心をきちんと正しい方向に向けていくことによって、はじめて自分自身を苦しみから救うことができる。」

堀尾:「仏教というと 彼岸があったら、彼岸に辿り着くために ある意味このブッダも含めて そういう人たちの教えにすがりついて、それに頼っていく というようなイメージがあったんですけど、最終的に自分の救済者は自分自身なんだよ ということを きちっと教えてるわけですね。」

“自己の救済者は自分自身”


《ナレーション》
 自分自身の意思を頼りにしていきなさい。それがブッダが最後に伝えたかったことなのです。
 そのとき重要なのは、自分の心を正しい方向に向けていくために 物事の原因と結果を突き詰めることだとブッダは説きました。 たとえば執着で苦しんでるときには そお苦しみの原因を見つけ、無意味な価値観に縛られないよう 心を整理することが大事だと諭したのです。

【執着を捨てるには?】

佐々木:「そこで一番大切なのが、ブッダが説いた 世の中は全て原因と結果で動いている。その法則性で世の中を見ていくことが、一番大切だと言います。そしてそれは普遍的なものの真実のあり方ですから、だれの視点が正しいとか彼の視点が正しいとかではなくて、原因・結果に基づいて 全てがきちっと合理的に理解できる その世界こそが この世界であると。」

堀尾:「つまり自分自身で考え抜いていくことで、執着というのをなくすことはできるということなんですね。」

佐々木:「そうですね。つまりこの世の中を正しく見る。正しく見るためには考えなければなりません。よく考えて そして正しく見る。そうすると世の中は 原因と結果の因果関係によって粛々と動いてるのが分かる。
    その中に自分勝手な世界を作って、ものに執着をするということが、これは苦を生み出すんですが、それが所詮は意味の無いことである。無意味なことである ということがわかったそのときに、その執着から生み出される苦しみも消える と、こういう構造になっているわけです。」

堀尾:「自分というものは ある意味 無いに等しい存在なんだっていうことを自覚する っていう…」
佐々木:「えぇ ただし それも先ほど申しましたように、意思作用が必要ですから。何も無い。私は無だ。 っていうわけにはいかないです。今の私は きちっとこの方向を向くんだっていう意思が必要です。
    その意思に従って 正しい方向を向いていくと、それが執着やその他の煩悩を消す道へとつながって、それが ひいては苦しみの消滅に繋がるということで。   仏教では自分の今の意思というものを とても大切にしてるんです。」

堀尾:「なるほど。だってね、執着全部捨てろ って言ったら 例えばほんとに向上心とか 人への情とか、それももしかしたら全部 執着かもしれない っていうふうで、捨て去らなければいけない、そんな思いにもとらわれるんですけど、やっぱり苦しみを伴わないものはそれはいいわけですね。」

佐々木:「そのときそのときで、今の自分にとって苦しみのもとになる執着はなんだ っていうことを考え続けなければならん っていうことですね。」
瀧口:「その 見詰め直すっていう作業が 大切っていうことになってくるんですね。」


◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

まぁ、大体は前回の“うらみ”の回についてと共通することではあると思うんですよ。どちらかというとこの第3回のほうが、前回より前の立ち位置にあるような感じでね。

気になったのは先ずこれ、
「あくまで“私”は要素の集まりなんだけど、この中に今の私を自分が変えていくことによって、将来の道筋を決めていく という意思作用。それも、その“私”の作用の中にあるわけです。だからこそ仏教は宿命論ではなくて、今の自分の努力が、この先の自分を決めていく という 修行の宗教になるわけです。」

結局この、唯一無二だと思ってる“私”というものは色んな因果関係によって存在しているもので、別個であるにも関わらず、“私”という個は“個”によってのみ形成されてるワケでは無いということなんでしょうか。
だから“私”は“私”のものでは無い。と。

でも、じゃあ意思作用というものはいったいどういうものなんだろうか。
無常の中で流れていく“私”というのは移り変わっていく時代や社会(年齢によって変わる人間関係)の波の中で摩擦がおこったりして削られたり、また付着したりして(海岸の貝殻や石のように)、“私”というものは形を変えて、意思も形成されていくということで。
じゃあ、その意思作用というのは、“私”であって、“私”では無いのでは。

結局どの範囲が(この表現の仕方も正しいのか分かりませんが)“私”なのか。

色んな要素によって構築される“私”というものは、普遍であって不変では無いということ。
そのとき大切だったおもちゃも、年齢を重ねたら要らなくなったり。
そのとき大切だった友人も、年齢を重ねたら合わなくなって、会わなくなったり。
ずっと続く人間関係というのも、過去の相手を求めるとそれは執着であって、変わっていくことを受け容れ合う関係は続いていくものなのかしらね。

で、『宿命論では無い』というなら、全ての出来事というのは決まってるわけでは無いというコトなのね。

それではネガティブな出来事はどう捉えたら良いのかしら。

いかだを置いていく。ブッダの教えさえも捨てる。成功体験すらも捨てる。
というのがあったけど、それもだけど、
失敗とか挫折とか、心に傷を負う体験とかを捨てる っていうことも大切になるわけで。
『今の自分にとって苦しみの元となる執着を捨てる』ということは。

どう捨てればいいんでしょうね。
事件・事故により傷ついたコトというのは。いわゆるトラウマみたいなものは。
そんなもん、執着してたら苦しいのは分かってることなのに執着してしまう …ってういうね。
前回の“うらみ”の感想でも書きましたけど。
ある意味、自分に対しての“うらみ”。取り返しのつかない悔い。がね。

ま、けど、ラストに佐々木先生の、
「(略)その中に自分勝手な世界を作って、ものに執着をするということが、これは苦を生み出すんですが、それが所詮は意味の無いことである。無意味なことである ということがわかったそのときに、その執着から生み出される苦しみも消える と、こういう構造になっているわけです」
という発言がありましたけど。
トラウマ自体が『今の“私”』には無意味であるということなのかな。

その発言に引き続き、堀尾さんが引き出して下さった、
『“私は無だ”っていうわけにはいかないです』
というのは大きいですね。
これは過去、アルボムッレ・スマナサーラ氏の本などを読んでても、なかなか掴めなくてそう思ってましたから。

“私”というものは“無”である。と。

けど、違う。と。

集合的な要素による、けど個 同士は別個である“私”という生き物。
それが苦しんで、生きるのを阻むものがあれば執着というものであり、それは捨て去るべきと。

常に自分の感情(苦しみ)を見張ることが大切。ということに終始するのでしょうか。


ブログ内リンク:“【100分de名著 ブッダ 真理のことば】 : 『第2回 うらみから離れる』を見た。”

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