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2011年10月 5日 (水)

“【100分de名著 ブッダ 真理のことば】 : 『第4回 世界は空なり』を見た。”

100分de名著 ブッダ真理のことば 
第4回『世界は空なり』を見ました。


MC 堀尾 正明
アシスタント 瀧口 友里奈

講師 佐々木 閑

ゲスト 藤田一郎


以下、大体テキスト化↓


◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎


佐々木:「今日はですね、自分自身を変えることによってわかってくる、ものの見方 ということについてお話しします。   特に今日は“空(くう)”というものを取り上げてお話ししたいと思います。
    日本の仏教でいう“空(くう)”というのは、これを知ることによって、たとえば仏になるための道が開かれる。たいへん重大で 重い教えとして伝わっていますけども、ブッダの教えの中では そういうわけではないんです。 人が色々なカタチで世の中を正しく見ていく その見ていく一つのあり方として、物事を“空(くう)”だと見なさい。と。そういう教えなんですね。
    ですから今日はまぁ、ブッダの空の教えを説いてる たいへん代表的な例として 仏教世界で一番古いと言われている、スッタニパータというお経の中から お話を一つご紹介したいと思います。」


《ナレーション》
 それは モーガラージャという修行僧が どうしたら死を乗り越えられるかを 尋ねたときのブッダの言葉です。

“いつも物事の本質を
 考えるようにして
 「ここに自分というものがある」
 という思いを取り除き
 この世のものは空であると見よ
 そうすれば死の苦しみを
 越えることができるであろう”
      スッタニパータ 一一一九


佐々木:「これはやはり 自分というものが永遠に存在する 絶対的な存在物では無い ということです。 したがって、“私”といっても そこの中には“私”の本体はどこにも無い。前回も申しましたように、色んな要素が集まってできてるのが“私”ですから。その中には“私”というものは“空”つまり 空っぽだと。」

瀧口:「空っぽなんですか?」
佐々木:「空というのは、こういう物・形があるんだけども、その中に本質が無いということです。なぜ 実体が無いのかといえば、それは諸行無常。すべてのものはいつまでも同じ形で残るものは何一つ無い。いつも移り変わって別のものに変わっていくからだ。 ということです。」

瀧口:「それは“私”もずっと変わらないわけは無くて、世の中と一緒で 変わってしまうんだよ。っていう。」
佐々木:「そうです。“私”というものは、昔から一つの存在で続いてるように思いますけど、実際は瞬間瞬間に別のものに移り変わる。ただ記憶とかそういうものが、それを引きずって 同じものだと思わせている。」

堀尾:「もっと言えば、“私”というものは、“空”になってしまうものだ…。」
佐々木:「本質的に“空”だ。今の“私”も―――」
堀尾:「“空”だと」
佐々木:「―――いうことです。」

堀尾:「そうすると、死をも乗り越えられてしまうと――…」
佐々木:「これは 死の“苦しみ”ということです。不死になるという意味じゃありません。死の苦しみから 我々は逃れることができるだろう ということですね。」


《ナレーション》
 “空”とは、自分が見ているものは常に変化しているかりそめの世界だと思え というブッダの教えです。世の中を“空”と見るためには、客観的に物事を捉えることが大切だと ブッダは説きました。しかしそれは容易ではありません。   執着やうらみなど、さまざまな煩悩にとらわれているからです。   ではどうしたら良いのか。大事なのは心の持ち方だと ブッダは言います。


“ものごとは心に導かれ 心に仕え
 心によって作り出される
 もし人が汚れた心で話し
 行動するなら
 その人には苦しみが付き従う
 あたかも車輪が
 それを牽(ひ)く牛の足に付き従うように”
      真理のことば 一


佐々木:「つまり外から我々は色んなものを認識していますけど、それを正しく客観的にできればいいんですけど、それを必ず心が歪めて認識してしまう。 歪んだ認識が 結局我々に苦しみをもたらすのだ。 つまり歪んだ心でものを見ると、そのあとに必ず苦しみがくっついてきますよ と。そういうたとえなんですね。」

堀尾:「歪んだ心 というのは、具体的にどういう状態のことを歪んだ心となるんでしょうね」
佐々木:「それは外界からの認識に対して、たとえば執着とか無明とか」
堀尾:「うらみとか」
佐々木:「うらみとか。そういった煩悩が、一種のフィルターになって、物事を自分中心に作り上げてしまう それが私の実際の本当の世界だと思い込んでしまう。 これが物事が、心によって導かれてしまう ということなんですね。」

瀧口:「じゃあ心の持ちようで、全く見え方が決まってきてしまうということですか」
佐々木:「そうですね。ですから心の持ちようをどうするかによって我々は、我々の心に苦しみが生まれるか生まれないか、それは決まってくる ということですね。」

瀧口:「じゃその心を正しく持たなきゃいけないと思うんですけど、どうすれば心を鍛えることが出来るんですか?」
佐々木:「それは訓練です。」
瀧口:「訓練? それはどんな訓練があるんでしょう?」

佐々木:「もし私たちが 何の訓練も受けずに 生まれた赤ん坊のままで育っていたらどうなっていたか。何も 物を客観視する力が無く、ただ野生のままで育っていく。 しかし私たちはそれを学校教育だとか、色んなところで『これはこう見なさい』というふうに ものの見方をならって(習って? 倣って?)きます。 それが積み重なって本当のものの見方をようやく身につけていく。ということですね。」


《ナレーション》
 ブッダは、心の持ちようを訓練すれば自分勝手な思いにとらわれず 苦しみから逃れることができると説きました。それが世の中を“空”と見ること。つまり、客観的に真実を捉えるということなのです。
 そうしたブッダの考え方は、科学にも通じると佐々木さんは言います。

佐々木:「言ってみれば科学者というのは そういった ものの見方を徹底的に突き詰めていく 客観的にものを見るためのプロですね。それが科学と呼ばれる一つの世界を作ってるんだと思いますね。


◎ブッダの教えを科学的に見るとどうなのか ということで、大阪大学大学院教授・認知脳科学者 藤田一郎さんがスタジオへ。



堀尾:「佐々木さんもお若い頃は科学者を目指していらっしゃったとお伺いしましたが。」
佐々木:「お恥ずかしい話ですが。(苦笑) 色々あって今は仏教学に移りましたけど。まぁ、仏教やってるうちに、だんだん釈迦の教えに触れて それは私にとってたいへん驚きだったんですね。
    まさか科学の因果関係に基づく合理精神が、仏教という宗教の根底にある 初めて気がついたときは たいへんまぁ驚きだったわけです。で、今ではそういう2つの場所に両方いることが出来た ってのはたいへん幸せなことだと思ってます。」

堀尾:「ブッダの教えというのは非常に宗教的、心の問題のようなイメージがありますけど、藤田さん このブッダの教えと脳科学の共通点 これはどういうところにあるんでしょうか。」

藤田:「科学は何千年も真理を追究してきたですね。その殆どの部分は 物質世界を対象に提供してきたんですけども、やはりこの何世紀かですね、精神世界も対象にするようになってきたんです。それが脳科学だというふうに考えます。
    脳科学自体は19世紀ぐらいにはもう始まってるんですけども、心の出来事を脳の出来事で説明する、と、理解しようと、そういう学問はやはりもう最近と言っていいと思うんですけど。1980年代から本格化してきました。
    ですからもう2500年前にブッダが目指していたことを 今の科学で突き進んで行こうと、それが今の脳科学であると考えてもいいと思います。」



【ブッダの教えと脳科学 “客観的”とは何か?】

堀尾:「これまでブッダは人間の認識は主観にとらわれがちである という、もっと客観的に見ろということを説いてますけども、科学から見るとどういうことが言えるんでしょうか」

藤田:「具体的な例をご覧頂きたいと思います。 どういう絵に見えますか?」





瀧口:「うーん、これは三角形が2つ重なってますよね。」
堀尾:「あの黒い線が描かれた三角形の上に、白のイメージが。……そうですね。」

藤田:「これ、三角形、内側と外側では どちら側が明るいですか?」

瀧口:「明るい…あ、内側の…上側にある三角形の方が明るくて浮き上がって見えますね。」
藤田:「そうですね。ここが明るくてここが暗い。というのは輪郭が見えますか?線が」
堀尾:「見えますねぇ。」
瀧口:「はい 見えます。」

藤田:「これ、勿論ここには何も無いわけです。色も線も無いわけです。この中、白く塗ってるわけじゃありません。」




藤田:「これはあくまでも、2人の心の中にだけある輪郭でして、“主観的輪郭”といいます。これはどなたに見て頂いても見えるんです。 ここにあるものと、目に映ってるものと、私の脳 みなさんの心の中に浮かんできたものの間には違いがあるんですね。ズレがあります。」

瀧口:「じゃあこれは間違ったものを私たちは見ちゃってる っていうことになりますか?」

藤田:「ここに無いものが見える という意味では間違ってるということも言えるんですけど、これは脳がやるべき仕事を今やってるからこれが見えてるんだと。そういうことを示してるんだというふうに考えています。で、やるべき仕事。この場合何かというと、足りない情報を補う・補完という そういう仕事なんです。」

堀尾:「脳はもともとそういう補完する能力があるということ―――。」
藤田:「そうなんです。普段の生活の中では どういうことに役に立ってるか ということなんですけども、まずですね、この写真を見て頂きたいんです。これ なんだと思いますか?」

瀧口:「あれ?なんですかこれは」
堀尾:「カマキリでしょう」
瀧口:「カマキリですか!?」




藤田:「これはハナカマキリという、マレーシアにいるカマキリの一種なんですけども、巧みに花びらに擬態することが出来る。化けることができる――その様子をちょっと見てみますと、これなんですけど どこにいるか分かりますか?」




堀尾・瀧口:「「えぇ~~~っ!?」」

堀尾:「全く分からないです。」
瀧口:「そうですね(笑)」

(写真中央あたりに擬態しているハナカマキリがいる。)

藤田:「ところがですね、これ こんなふうにステキに見えるのは、私たちの脳が働いてるからこういうふうに見えるんですね。これ、あの実は色を明るさに基づいて 輪郭をコンピューターに抽出させます。そうしますとこうなるんですね。
    これ、見てお分かりのように カマキリの胴体と首が分かれてしまってます。頭もよく分かりません。これの花びらなどは輪郭がうまく抽出できてませんね。」

堀尾:「花びら自体も分かりにくくなってると」

藤田:「分かりにくくなってますね。これは言ってみればですね、私たちの目の奥にある 光を感じる網膜が 捉えてる像に非常に近いんです。もちろんこれに色がついてるんですけど 網膜の場合には、それでもそこから抽出できる、最大限の情報というのはこのくらいのものなんですね。」

《ナレーション》
 普段、私たちの目の奥にある網膜がとらえるのは こうした不完全な輪郭情報です。しかし脳が記憶などから情報を補うことで 私たちは この写真のように世界を見ることが出来るのです。


堀尾:「ということは、網膜に映る世界と、脳が解釈してる世界が違うということですよね。」

藤田:「そうですね。一番分かり易い例えはですね、こういうテーブルでもそうですが、お皿でも、世の中にまんまるな物ってたくさんありますよね。
    でも、まんまるなお皿や まんまるなテーブルが、私たちの網膜の上でまんまるに映るときってどんなときですか?」

藤田:「まるがまるとして目に映るのは、真上から見るときだけですよね。そうですよね。
    そういうとき、滅多に無いです。私たちの目に映ってるものはいつだって、本物の物体の像とは違ったものが映っている。殆どの場合は。   そういう意味では、脳が解釈して自覚したり認識したりすることに結びついてる結果というのは、網膜に映ってるよりも客観的であるかもしれない。」

堀尾:「先生たとえば、これは上からこうやって見たら丸いから、座って見ても過去に上から見た経験があるから っていうから丸く見える っていうものでもないんですか?」

藤田:「でもさきほど話題になってましたように、最初にこのカマキリを見てなかったら この花の写真にカマキリいるなんて分からなかった。 ということは最初にカマキリを見れば、私たちがその経験を積んだことで見えることになると。 ですから物がどう見えるかではなくて、そこに何があるかという認識のレベルになると。 すごく訓練であるとか 経験であるとかいうのは大きな役割を持ってくるわけですね。」

佐々木:「たとえば仏教ですと、修行によって私たちは間違った世界観をより客観的に正しく見なければいけないと言うんですが。」

藤田:「今は私が専門にしてるということで、視角を例にとってるわけですけども、もっと感情とか、何かの出来事に感情がものすごく結びついてると、『幸せだった』『あれは良かった』『我々は非常に悔しい思いをした』『ヤツにはうらみがある』 と。そういうようなことはちょっとレベルの違った、脳の中の違った場所で 処理されていまして。
    そこでは、僕はものを見ることよりは、もう少し、意識的なコントロールができる というふうに思います。それは自分自身の経験としてもそうですし、脳科学としてもそういう知見というのはかなりあると思うんですね。」


《ナレーション》
 脳科学の観点では、物事を客観的に見るには経験が大事だと言います。一方ブッダは物事を客観的に見るには心のコントロール つまり精神を集中させることが必要だと説きました。


【精神集中は何をもたらすか?】

堀尾:「ブッダは物事を客観的にとらえるためには、瞑想しろ 精神を集中しろと、いうふうに言ってますね。」
瀧口:「でも客観的にとらえるために、どうして瞑想が必要になってくるんですか?」

佐々木:「瞑想というと宗教的な感じがしますが、精神集中というと まぁ、色んなことに必要な精神のはたらきですわね。あの 集中した精神というのは、特別な力を持ってると思います。 仏教というのは その集中した精神を使って自分の心の中を観察して、それを変えようとする。」

堀尾:「藤田さん、この瞑想については 脳科学的にはどういうふうにお考えになりますか?」
藤田:「たとえば瀧口さん、大学で勉強していて、外で工事がガンガンと始まると。」
瀧口:「よくあります そういうこと。」
藤田:「ありますか そういうこと。」
瀧口:「もう気が散って、全然集中できなくなっちゃいますね。」

藤田:「やっぱり私たちの脳っていうのは 自分の周りの世界で変化が起きたことを検出することが大事な仕事ですので、そういうものがあったら当然 そちらに注意が向くんですね。 だけども、それを上手に一つずつ遮断していくと。
    たとえば、目を閉じて、他の感覚だけで食べ物の味を知ろうとか。目だけではなく 耳も閉じる ビールの泡の音も聞こえない。そうするとビールはどんな味になるのか。鼻もつまんでみる。
    一つずつ感覚を遮断していけば、それまで当たり前と思ってたものが 当たり前でないものに変わっていくわけですね。 最後には全て、外からの情報は来ない状態になって、で、そこで、何かを考えるわけですよね。瞑想というのはそこから先に心の中にあるものを整理していくわけですね。」
佐々木:「そうですね。」

瀧口:「つまり集中ということは 一つ一つ感覚を遮断していって こう、限定的にしていくってことが、集中して瞑想する っていうことに繋がるんですか。」

佐々木:「一つの対象を徹底的に観察して理解するためには、そうせざるを得ないでしょう。ほかの余計な情報は それを妨げる原因になりますからね。」


《ナレーション》
 人は時として苦しみや悲しみなどの感情に溺れてしまいます。 そうしたときに正しい判断が出来なくなり、自分を追い詰めてしまうことがあります。そんなときこそ自分の状況を客観的に把握し、生き方を変える勇気が大切になります。
 ブッダは苦しみから逃れるためには 強い意思が必要だと説いたのです。


堀尾:「あの、今の時代、非常に不透明な日本、この、どうして自分が生きてるのかという 意味を見出せない若者もいればね、一方でこの大震災が起きて、大切な肉親を失って、ほんとに自分はこれからどうやって生きていこう っていう苦しみにもがいてる方もいらっしゃる。
    そういう中でね、このブッダの教えが、どういうふうにしてそういう方たちのために活きていくか というのは佐々木さんどうでしょうか」

佐々木:「私たちに必要なのは 世の中のあり方をしっかりと自分の目で確認して見ること、そして正しい判断を下すこと。これがたいへん強く求められてる時代だと思います。 ですからブッダは一人一人のために教えを説きましたが、それは今の日本という国全体にしても たいへん意味のある、役に立つ教えだと思ってます。
    ですからブッダの教えを一つ一つゆっくりと噛みしめて、それが意味しているもの 自分たちの中へ取り込むことで 自分の生き方を変えることができるかもしれない。
    そういう意味ではみなさん一人一人がブッダの教えをよく理解して頂く、そして生きる杖にして頂きたいと思ってます。

◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎


正直、脳科学の見地(というか藤田さんの解釈)が加わったことにより、ますます意味が理解できなくなってしまったんですが。

心の問題から脳のほうにいったのなら、身体的な反応や対処とかももっと踏み込んであっても良かったんじゃないかと思うんですけどね。

たとえば、過去の経験から見たものを記憶から補完するってこととかね。
あぁ、あとは佐々木さんが言われていた、『学校などでものの見方をならって(これどっちでも言えますよね、個人の対処としては。“習う”も“倣う”も)』っていうのがありましたけど、そもそもその ならったこと自体が過去の記憶による補完されたものの見方で、それが正しくなかった っていうこともあり得るワケですよね。

ブッダの教えにすら執着するな(前回より)というように。
…まぁ、こういうのも理解と解釈を重ねていって客観をすることになるんでしょうか。

網膜に映るものと、脳が解釈してるものがある っていうその違いについては面白かったですが。

瞑想については何か煮え切らない感じ…。
外界からの感覚を意図して閉ざしても、脳内ではゴチャゴチャと雑念が浮かんでくる場合のことは触れてなかったような。

しかし…なんていうか…、
最後の堀尾さんのフリにあるように、その不透明で各自の持つ不安に対しての処方箋みたいなものは何か? みたいなものを最後に佐々木さんから欲しかったんですが、

“世の中のあり方をしっかりと自分の目で確認して見ること、そして正しい判断を下すこと。これがたいへん強く求められてる時代だと思います。”

これだとそれこそ各個人の、
起きたことは一つであっても、解釈は人によって異なるように各個人の解釈に委ねられ、自分で希望を見つけていくものだ。と?
と言うならばどうしても過去の経験と現在の状況を自分の目で見ると憂うより他ならないんですよね…。

これまでもアスボムッレ・スマナサーラ氏の本を読んできたりしましたので、仏教に関しては大体言わんとしてることは分からなくも無いんですが、それを踏まえて、もっと得たいものがあったんですがちょっと消化不良な感じ。

今のところだと 諦観が結論に感じてしまうし。

ニーチェの永遠回帰も含めてもね。

うーん。第2回、3回は面白かったかもね。


ブログ内リンク:“【100分de名著 ブッダ 真理のことば】 : 『第3回 執着を捨てる』を見た。”


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