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2011年9月 6日 (火)

“【100分de名著 ニーチェ・ツァラトゥストラ】 : 『第4回 現代に超人は可能か?』を見た。”

100分de名著、ニーチェ、ツァラトゥストラ 『第4回 現代に超人は可能か?』を見ました。

1~3回までは見てなかったんですが、今回初めて見ました。

MC:堀尾正明、瀧口友里奈
講師:西 研
ゲスト:斉藤 環

以下、番組内容を大体テキスト化。↓



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19世紀 ドイツの哲学者ニーチェ。
当時のヨーロッパの価値観を根底から疑い、人間の生きる意味を問い続けた思想家。

ニーチェは主人公『ツァラトゥストラ』を通して自らの思想を説きました。
『神は死んだ』
ツァラトゥストラはキリスト教に基づいた価値観が崩壊していることを人々に知らせます。そしてこれまでの価値観に頼ることなく 創造的に生きる存在……―――“超人”を理想としたのです。
超人になるための最大の関門 それは、苦しみも含め 同じ人生が何度でも巡ってくるという、“永遠回帰”を受け入れることでした。

ニーチェは人間が生を肯定するにはどうすればよいかを徹底的に考えぬきました。


西研:「第1回から第3回まではツァラトゥストラの物語と、そこに込められたニーチェの哲学を読み解いてきたんですけども、今日はですね 現代を生きる私たちに、このツァラトゥストラの思想がどう役立つか ということを今日はテーマにしていきます。」



スイスのシルス マリヤにニーチェハウス(ニーチェ記念館)がある。ニーチェが滞在して執筆した部屋がある。
ツァラトゥストラは当時 人々の理解を超える内容から、ほとんど見向きもされない書でした。最終巻に至っては、わずか40部ほどニーチェが自費出版しただけだったといいます。

その後ニーチェは精神を病み、思想家としての活動が全く出来なくなります。
 
病に倒れた晩年から20世紀にかけて、ニーチェの思想は次第に認められるようになります。
19世紀の古い価値観を打破したいと考えたヨーロッパの新しい知識人が、ニーチェに共鳴し始めたのです。
ところが1930年代になると、ナチスによってニーチェの思想が歪められました。“強者が弱者を支配することを肯定する思想”と誤って解釈がされ、ユダヤ人迫害の正当化に利用されたのです。

第2次大戦後、ニーチェに再び光が当てられます。
近代の価値を転換する思想として、特にフランスの哲学者や批評家などに注目され、
《脱構築、蕩尽(とうじん)の哲学、ポスト・モダンの哲学、存在論》
戦後の新たな思想の源流となったのです。


 
【現代の私たちの生き方に ニーチェの考えをどう活かしていくか。】

堀尾:「斉藤さんは ツァラトゥストラという本、どのように捉えてらっしゃいますか?」
斉藤:「学生時代に手に取ったのですが、学生時代というのはひねくれたところがありまして…。アポロン的な 理性的な哲学じゃなくて、もうちょっと享楽的なところというか…いわゆるディオニソス的なというか。そういうところに魅力を感じたというカタチで入っていきました。」

アポロン的…理性的、論理的

堀尾:「人間的に物事を考えよう―――…っていうのが…」

ディオニソス的…感情的、享楽的
 
斉藤:「そういったものを享楽的に捉えるといった…
    ニーチェは晩年 精神を病んだりとかですね、ちょっとこう狂気を孕んだところが…まぁ、まだ…免責の余地から… ちょっとこう ニュアンスを感じる あとづけかもしれませんが。
    そういうのに我々は惹かれてしまう という困った性癖がありまして。(笑)  狂気に至るまでの天才と紙一重というかですね、そういう発想で魅されてしまうというのがたぶんあったと思いますね。」

堀尾:「斉藤さんがツァラトゥストラの中から、これぞ名文!というものを―――。」

斉藤:「“末人(まつじん)”という…“ラストマン”という人々にかかわるものの描写が――…。」


 われわれは幸福を発明した―――
 「末人」はそう言ってまばたきをする。
 彼らは生きるのにつらかった土地を去った。
 ぬくもりが必要だからである。
 さらに彼らは隣人を愛し、隣人に体をこすりつける。
 ぬくもりが必要だからである。
                  「ツァラトゥストラの序説」より

斉藤:「先ず 非常に毒のある表現といいますか――…。
    まず“まばたき”をするとかですね――いかにも動物的というかですね、小人物というかですね…、すごく軽蔑される存在という印象を与えてくれてますね。単なる快感ですね。 緊張を解放するだけの――リラックスをひたすら目指すという。
    “ぬくもり”と書いてあっても 決していい意味ではなくて、単純にこう ゆるい世界でね、まったりと生きたいというですね。そこだけ聞くとといいように聞こえますけど、まぁ、超人のように自分を鍛えていくような、きっかけはそこには無いわけですよね。」

堀尾:「これは今の世の中と通じると感じるところはありますか?」
斉藤:「うん。 やっぱりある種の予言の書というか、やっぱ今の人の一部の人ですけどね。在り方が限りなく末人的なライフスタイルに近づきつつあるんではないかと。」

堀尾:「先生、当時からこの末人のくだりというのは好きだったんですか?」
斉藤:「これを好きというと誤解を招くおそれも…(笑)」
堀尾:「好きというか 気になったというか…。」
斉藤:「なんというより、まず自分のことを言われてる感じというか。おれはいずれこうなっちゃうんじゃないか、っていう そういう懸念を一番青春期に感じました。」
堀尾:「当時の学生はそうやって読んだのかもしれませんね。」
斉藤:「そうかもしれませんね。」

【それぞれの”超人”論】

堀尾:「“超人”という思想、お2人にとって超人とはどういうことなのか。」

西研:「超人というのは、究極ポジティブな存在ですよね。常にクリエイティブに生きていく。ルサンチマン(恨み、妬み、嫉妬の感情)なんか関係ないっていう。そういう存在ですよね。
    超人を目指す ってニーチェは言うんだけど、ぼくはねぇ、あの、よろこびの方向に向かっていけ、とか、高めあっていけ というメッセージはすごくいいと思ってるの。でもニーチェの書き方は、一人で頑張れみたいなところがあるんですよ。うん。一人でがんばって強くなる。ストイック。
    でも、人が本当にクリエイティブになるときってどうなんだろう。ニーチェの言うクリエイティブですよね。 それってお互いが自分の感情を出して、それをちゃんと受け取った とか、ちゃんと返ってくる そういう信頼があるところで、クリエイティブというのはものすごく出てくると思うんですよ。
    たとえば まぁ、古い話だけど、ビートルズのジョン・レノンとポール・マッカートニーが曲作ってるときに、も-最高だった ってこと言ってるんだけど、お互いの間でどんどん響いてね。コールアンドレスポンス。 こっちが呼べば向こうが応える。そう 刺激し合って ガーっと高まっていく。そういうところにね。超人のほんとの具体的な形があるような気がするんですね。
    だから お互いの感情をちゃんと交換し合うとか、そういうつながりの中で超人を目指す。うん まぁ、言わばしなやかな超人。そういうイメージを持ってた方がいいような気がします。」

     “しなやかな超人”を目指せ



斉藤:「あの、私は専門がひきこもりなんですけども、私は超人というのは完璧なひきこもりのことだと思います。ちょっと西先生の真逆みたいな感じになっちゃうんですけど。
    ひきこもり ってのは仕事もしないし、人間関係も無いし、業績も無いし。そういう自分を全肯定できるかどうか と、そこが超人の非常に重要な条件なんじゃないかと。」

瀧口:「ひきこもりの状態で良い っていうことなんですか?」
斉藤:「そうです。 そのひきこもってる自分を、いかなる価値基準に照らさないで肯定できるかと。無根拠に肯定できること。」

瀧口:「なんか、仙人みたいなイメージが今ちょっと浮かんできたんですけども…。」
斉藤:「そうです。禅僧とか 仙人とか。」

西研:「ニーチェの思想のすごくいいところに、どんな自分が その失敗しちゃっても、その自分を絶対見捨てちゃダメなんだ。そういうこと言うんだよね。
    やっぱり自分が自分の最大の味方で、そこを肯定できなきゃいけない思想ってニーチェの中にありますよね。」

斉藤:「ただ 普段若い患者さんを中心にですね、接してて思うのは、ま それこそ ニヒリズム(「すべてのものは無価値である」とする考え方)じゃないですけども、否定が力を持ちすぎている。いじめにしても、ニートにしても、いわゆるロストジェネレーションと呼ばれる、まぁ、ワーキングプアなんかも含まれてますけどね。若い世代の…まぁ、意識の中にですね、肯定をする力が弱まっている気がするんですよね。   すごく危険……危惧しているところなんですよね。そういうとき この、とりあえず、自分を力強く肯定するところから始めよう という考えは、 すごく意味があると思いますし、臨床をやっていても……ま、人間関係でもいいですけど、何かちょっとしたキッカケでも自分を肯定することが出来るとですね、こもってた人が動き出す ってのはよくあることなんですよね。
    肯定感が最初にあると、医学的に考えてもですね、それが次の展開に繋がるという実例はいっぱい経験してきましたのでね。  なんとかそれを持ってほしいな と。願望も込めてですね。“究極超人”―――…。

    結局ですね、ひきこもってる人が抜けられないのは世間体を気にしたりだとか、世間のものさしに縛られてるから出れないんですよ。」

瀧口:「今、問題になってる ひきこもりというのは、自分自身を 自分のものさしで評価できないところが一つ問題に――…」
斉藤:「まさに仰るとおりで。社会的な基準だけに依存しているので、自分をどうしても肯定できないんですよね。ずーっと自分を否定しながら毎日を過ごしている。とても苦しいわけですよ。
    逆に 全部肯定できた瞬間に、自由になるんですよ。パラドックスなんですよね。それこそツァラトゥストラが山から下りたみたいに。肯定が完成したら こもってられなくなっちゃうんですよ。結果的に。」

堀尾:「多くの人と交わる ってことも、できるようになるわけですか?」
斉藤:「できちゃうわけです。しようと思ってするわけじゃないんですけど、ま、自然ななりゆきでそういうふうになってしまうというか。」

西研:「斉藤さんどうなんでしょう。世間の基準から自分を見てることで 苦しいし、外にも出られないけど、じゃあ 自分自身のありのままをね 全部肯定するためには――、実は「アンタそれでいいよ」と言ってくれる誰かがいらないと思うんですけど。どうです?」
堀尾:「それは精神科医の仕事なんじゃないですか?」
斉藤:「やー、我々が肯定しても、それは仕事になっちゃうんで――。なかなかそれを素直に受けてもらえなくなるんですけど。
    やっぱ承認の問題は大きいわけで。みんなが承認を求める時代になっているとも言えますから。承認してもらえて肯定する。という生き方が普通なんですけども、ここは敢えてニーチェ的に、 承認抜きで自分を肯定せよ。と。言いたいところなんですよね。とりあえず とっかかりとして です。


    “承認抜きで 自分を全肯定せよ。”




【ニーチェ 人生相談室】

瀧口:「あのー、私 今 大学生なんですけど、今 就職氷河期って言われてると思うんですけど、でも、それでも大企業に行きたい って人がすごく多いんですね。中小企業でももちろん魅力的なところ あると思うんですけど、やっぱり安定性とか、お金の面とかもあって、大企業に集中してしまって、それがさらに 就職氷河期を加速させてるんじゃないかって感覚もあるんですけど。   自分が本当にやりたいこと っていう――ニーチェの言う超人のように、今 こういうことがやりたいんだ って内側から溢れてくるようなものっていうのを、みんな見つけきれてない…なかなか。
    っていうのと、どうやったらそれを見つけて、こう“超人”みたいになっていけるのかな、 っていうところがあれば―――…。」


斉藤:「就活も婚活もそうなんですけど、どうしても比較の発想になっちゃうんですよね。こっちよりも こっちが大きいという。 こっちが安定している。福利厚生がいいとかですね。比較の話ばかりしていると、私は”末人”的になっていくというか。どっかしらで自分が置き去りになってしまう感じがするんですよね。
    で、精神科医として言うんですけも、精神分析的には、まぁ、人の正しい生き方というのがあってですね。それは何かっていうと、自分の欲望をあきあめないことなんですよ。最後まであきらめない。絶対譲歩しちゃいけないんですよ。これはもっとも正しいとされていて。
    ただ、一番難しいのはさっき瀧口さん仰ったように 何が欲しいか分からない というのが最大の難点なんですよね。すごく多い。だから自分探しは 自分の欲望探しで。結構難題なんですよ。    だけど、比較の発想をだんだん剥ぎ取ってですね、それをやめていけば、ひょっとしたらそれは見つかるんじゃないかと思ってるんですけど。
    やっぱり どっぷりと 受験のときからですね、その就職→結婚に至るまで、比較の発想に慣れすぎていると、欲望が逆に見えなくなってしまう懸念があるので、なんとかそこを一回リセットするようなですね、キッカケをですね 掴んでほしいなと思うんですけどね。」


西研:「ぼくもすごく共感ですね。
    やっぱり普通でなきゃいけないとかね、普通より もうちょっと良いほうがより良いでしょうけど、あの 根っこにあるのは「脱落したくない」っていう気持ちだと思うんですよ。「落っこちたくない」ね。
    世間並みのところから「損したくない」。そういうことばっか考えますよ。 それで就職――…だんだんうまくいかなくなったりすると、全世界から自分が否定されたような気持ちになってくるのね。わかりますよね 気持ちは。
    でも、ニーチェ的に言うとね、世間から評価される前に、どんなことやったら自分ワクワクするの? どれやったらオレ燃えられるかな? っていう、やっぱそこ考える必要があって。ぼくね、会社で自分のワクワクを実践するくらいに思わないとダメかもと思うわけ。それ理想論だけど。 でも やっぱり どうやったらワクワクできるの?っていうところから考え始めないと いけないと思うんですよね。」

瀧口:「「脱落したくない」っていうと、マイナスから始まっちゃう考え方になっちゃう―――…」
西研:「そうそうそう。その通り。」

堀尾:「ぼくね前回 ニーチェの『運命愛』っていうのを説明して下さったときに、要するにニーチェは 人生は全て運命であると。その運命を受け入れられれば、肯定できれば、こんなに喜びに満ちたものはない っていう考え方じゃないですか。   だからどんな障害があっても、それも運命で、それをプラスに考えられる っていうね。究極のプラス思考。 それから、今 たとえば ま、就職・受験に失敗した。それもプラスに導く何かがあるんだって思えれば すばらしいことですよね。」

斉藤:「肯定の考え方 いろいろありますけど、ぼくは 偶然を必然に感じられる才能だと思うんですよね。そういうキッカケとして ニーチェを読んでみるというのも いいかもしれませんね。」


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超 面白かったです。

たしかに、自己肯定感は、弱まっていると思います。
それは 安易に人と繋がることの出来るツールがあるから という、今の時代だからこそ、というのに限らないとも思いますが。

で、個人的に惹かれた言葉は、
『就活も婚活も、比較の発想』とかってくだりのところが。

そう、結局、ここなんですよ。“世間”とか“普通”とか“社会的”な…そんな価値観に無意識下で依存しているんじゃないか? ってコトがですよ。
でもね、仕事とか…そういうのは“誰か”の“社会的”な価値観に受け入れられてないと、成り立たないワケですよ。いや、勿論 そんなのは切り離して考えて然るべき…って視点もありますが、幼い頃から生存のレースに乗せられてる人間にとっては、生産と消費活動を行わないなんていうのは、社会から隔絶された存在でゴミ同然なんだって思えるんですよ。

社会の枠組みで生きることが、生きることを肯定する全財産みたいな考え方になってしまっていて、だから誰かに,何かに必要とされていないと、自分が肯定できてない。


これがあまりに多い。
というか、これが多分全てだと思うんです。
すべての生きてる人は。


若い人について 主にピックアップされてたような気がしますけど、私自身、色んな年代の方とお話しした経験からですが、そんなものは関係ないと思うので。


『自分の欲望をあきらめない』とありましたけど、これもね、それまでの、比較の世界の価値観がインストールされていて、たとえば、自分が何かを好きなことも、「多くの人がこれを好きだから好き」というのとか、また逆に「マイノリティだからこそ、好き」とか。その「『マイノリティが好き』なオレが好き」という考えもあったりとか。
自分の感情が、誰かの立脚した価値観に依存してるから構築されたんじゃないのか? とかをね。考えたりするんですよ。

で、西さんと斉藤さんは“しなやかな繋がり”とか、また“ひきこもり肯定”とかありましたけど、本質は全く同じだと思うのです。
西さんの場合は、他人と真ッ剣に関わること。(感情の交換をすること。お互いの思いを表出し合うこと。)で、斉藤さんの場合は、徹底して自分に向き合うことだと思うの。

結局それは“自分”の根源・源流を知るキッカケとなるのでしょう。

ただ、価値観の合う友人・知人となぁなぁな語り合いをするのでもなく。
ただ、自分の価値観を正当化するためだけに殻に篭って他人を否定してばかりでもなく。

(自分は自分で完璧で在るし、他人は他人で完璧で在るのだから。)

(けど、他人の完璧はなかなか認めたくない感情が出てきてしまうと思うけどね。それは自分の完璧を肯定しているからこそ なのかもしれないけど。…このあたりが難しいからこそ、おそらくナチスによって歪められた部分があるのかもしれませんけどね。『支配が正しい』という誤ったことがね。)

全ての価値観を解(ほど)いて、確立した自分を肯定すること。
これは難儀な道のりかもしれませんけどね…。

私自身としては、運命論みたいなものはまだ肯定できない、というか疑問なので。
マイナスな出来事自体をどう捉えるか という問題(不慮の出来事による死や、心身に大きな傷を負わせるような出来事)が起きたとき、これも“運命”だと、“必然”だと受け入れられるかどうか …というのは自信が無いですので。。。
永劫回帰が苦しみも含めての肯定だから、多分 “私”が苦しみや不都合を肯定出来てないのかな。被害者感情を持ちたい(自分の優位性“だけ”を常に考える)からかもしれないけど。
(…どうしても こういった場合『たられば』を考えてしまいますから。だからニヒリズムになってしまうと思うんですよ。全て無駄・無価値かと、ね。)

これを超えたら、“超人”に なれるんでしょうかねぇ。

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