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2010年1月 6日 (水)

“『FILE092:「ドストエフスキーより愛をこめて」』を見た。”

爆笑問題のニッポンの教養。

2009年11月17日放送。

FILE092、『ドストエフスキーより愛をこめて』を 見ました。

亀山郁夫(かめやまいくお)
東京外国語大学学長。ロシア文学。

以下、番組内容。
料理などは一部省いてます。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

昼の13時に待ち合わせ。新宿にて。地下にあるお店へ。…ロシア料理店へ。

3人:「「「カンパーイ」」」
田中:「これ、本当にウォッカなの?初めてだよ。」

田中氏、飲んで 苦悶の表情。
田中:「意味がわからない。これを体の中に入れる意味がわからない。」

田中:「こいつ(太田)お酒飲めないですよ。オレはもっと弱いですけど。」
亀山:「しかしですね、お酒が飲めないとロシア人の心はわからない。
    (どれだけ飲めるか聞かれて)若い頃は1本は飲めたと思います。」


《ナレーション》
  日本を代表するロシア文学者。亀山郁夫。
  亀山が新たに翻訳したドストエフスキーの小説は現在 100万部を超えるベストセラーとなっている。
  その貢献に対して、昨年ロシア政府から文化勲章に当たる“プーシキン賞”を授与された。
  ドストエフスキーは何故 現代日本に蘇ったのか。


亀山:「人間ってのは 根本的に不幸な存在だと。その不幸をどうやって克服し、生きる価値を見出していくのか っていう。
    今、その救いの処方箋というものをですね、一人一人の読者がこの読書を通して探し出すべき時代が来てるんだなぁ と いうふうに思ってます。」


田中:「もともと先生は、ロシアをそれだけ専門でね、やるようになるキッカケってのは何だったんですか?」
亀山:「やっぱりドストエフスキー『罪と罰』を読んだとき。……13歳。」
太田:「13歳!?」
亀山:「中2のとき。」
田中:「中2で」
太田:「やばいですよ。それ。」

《ナレーション》
  全国各地で相次ぐ無差別殺傷事件。“誰でもよかった”といって、人が人を殺す。
  そんな社会と人間の在り様が150年前の小説に既に描かれていた。


  “ドストエフスキー 『罪と罰』”
  ラスコーリニコフ:『天才は 正義を実現するために 犯罪をおかす権利がある』 『自分は ほかの人間より 多くのことを許された人間なんだ』

  ドストエフスキーは殺人者の心理を克明に描き続ける。


太田:「ドストエフスキー っていう 言葉がもう、大体さ、名前がいかにも…っていう、ねぇ? だから僕も『罪と罰』読んだときに、サスペンスなんだ。エンターテイメント。」

田中:「なんで手にとって読もうと思ったんですか?」
亀山:「ホントに偶然で。憎き父親に復讐する ってわけでもないんですが、まぁ 嫌いな父を驚かしたい みたいな。」
太田:「じゃあ、お父さんに自慢したんですか?」
亀山:「いや、しませんでしたね。
    2週間かけて読んだんですけど、ホントにもう 殺人犯のラスコーリニコフに成り代わっちゃった感じで 完全にシンクロしちゃいました。2人の女性を殺害する場面を読んだ翌朝は、自転車で中学校に行こうとして、その門を出ようとして、警察に捕まるんじゃないか――…。」
田中:「そんな入りこんじゃったんですか?」

太田:「例えば…ちょっとこう、今ね、若者が、ある種 犯罪の美学みたいなとこだけ受け入れて、そっちに走る影響もある書物ですよね。」
亀山:「『DEATH NOTE』ってありますよね。
    あれもやはり考えてみると、『罪と罰』が書かれたことによって 初めてね こう 意味帯びる って言ったら変ですけど、『DEATH NOTE』最近その存在知ったんですけど、それ ちょっと知って驚きましたね。こんなところにもドストエフスキーって生きてるのか。
    今、インターネット社会…情報化社会っていうか…。そういうその時代がね。予言されているのかなって思うんですよね。『罪と罰』なんか1860年代の小説 そのインターネットによって経験する世界と、なんていうんですかね、あの時代に生きる ってことの間には、何かね、こう見えざる深~い 水脈っていうか、それが感じられるんですよね。
    丁度ロシアの広漠たる大地が インターネットの果てしない空間と重なるんですよ。そんな感じですね。」


『おわかりになりますか?
 これ以上どこにも行き場がないってことが
 いったい何を意味するか?』
    ――“罪と罰”


亀山:「――その、人を恨みますよね。ですけど、人を殺したい ってそれぐらいに憎んだこと ってあります? 今までの…」
太田:「~~いやぁ~…、無いねぇ~…」
田中:「や、瞬間的に、消えろ って 思うことはありますよ。 ただ それはね、表現は“消えろ”っていうことで、“殺したい”じゃないんですよね。あのね、」
太田:「人任せ」
田中:「そうそう。そうね。」

亀山:「ドストエフスキーね、そこがツイてんだな と思う。つまり、“消えろ”って感じですよね。」
田中:「えぇ。」
亀山:「そうすると 願望した本人は、どこまで罪を問われるべきなのか」
田中:「『DEATH NOTE』ですよね。わかりやすく言うと。」
亀山:「ですね。つまり“消えろ”っていう感覚を最初に発見したのって ドストエフスキーかな って思ったりしますね。」
太田:「それは確かにネットの世界の荒野っていうと、ネットはまさにその思いが溢れているので。」

亀山:「ドストエフスキーの描く、悪の多様性っていうのかな それまでの19世紀の作家たちには ホントにこう 描けなかったような、さまざまな悪を 隅々まで描いている。同時代には…当然あの時代には 農奴解放後、というのがあって、混沌とした時代でしたから。
    農奴たちが解放されて、自由を手に入れた。自由ってのはお金がかかるんですね。お金がないと 自由ってのは享受できないわけだけど、そうすると 全体として 都市全体の顔が変わってきて、すさまじい犯罪が起こってくる。それをドストエフスキーは色んな形で描き分けてるな って。」

『力が必要なんだ
 力なしじゃ 何も得られない。
 で その力ってのは 力で勝ちとらなきゃならない。』
    ――“罪と罰”


亀山:「例えば、尋ねたいなぁ っていうふうに思うのは、この豊かな状況の中で やっぱり人間 一人一人の、その感じ方とか 或いは考え方とか、人間そのものが変質しつつある。 そういう感覚ってありますか?」
太田:「い~~やぁ~ 僕はねぇ~ その…」

亀山:「人間って何なのか って問われてると思うんですよね。しかしその 何なのか っていうことに対して、しっかりとその答えられる人って、ほとんど誰もいなくなってしまったな って 思うわけですよ。
    一人の人間が一人の人間として ある種 こう調和を保ち得るような。そうした状況っていうのが全く消えてしまって。例えば何て言うんですか、ネットおたくっていうか、ホントにその、インターネットの前に座っているときだけが自分である し そうしてほとんどの時間をそうやって過ごしている そしてその中で 全能感をず~っと味わい尽くしている。
    そういうね、そういう人間って少なくないと思うし、私も結構ネットおたく的なところがあって、危険だな って思うところがあるんですね。その中に吸い込まれていって、周りの世界が消えていって、そういうその 全能感に酔うっていうのが 何か一人一人の前にね、かなりこう表れてきてるんじゃないかなって、そこまで追い詰めてる気がするんですけど。」


《ナレーション》
  自らを選ばれし者と考え、殺人を犯したラスコーリニコフ。彼に対して ドストエフスキーが用意した救いは 極めて単純な、しかし根源的なものだった。


『いますぐ、いますぐ、十字路に行って、そこに立つの。
 そこに まず ひざまついて、
 あなたが汚した大地にキスをするの。
 …自分のなかのすべてが一気にやわらいで、
 涙がほとぼしり出た。
 …広場の中央にひざまずき、地面に頭をつけ、
 快楽と幸福に満たされながら、
 よごれた地面に口づけした。』
    ――“罪と罰”


亀山:「あ、救い ってあるんだな って感じしましたね。
    そのときから 何か、“大地っていう観念”は 正直な っていうか、自分の心を開くんだ。どんなことがあっても 最終的には自分を開けばいいんだ っていう。そういうふうな。」

太田:「最終的に大地にキスをさせたドストエフスキーは いや、そうじゃない やっぱり繋がれ…ここは 断ち切ったら それはもう 生きていけないんだと。そのまま宇宙空間にポーンと放り出されるようなもんで、そうじゃなくて 大地につながれ っていうメッセージだとすると、そこで読者は、あ やっぱり繋がってるんだ ってことで安心を得るとするならば。すごくわかるんです。その気持ち。
    で、おれが一番、今 生きてきた中で いちばん安心できていた時代っていうのは やっぱり母親のもとで育っている子どものころ どっかそこを求めてるんです。我々は、そこに戻りたいと思ってるんだけど、とてもそうはなれないのも知っている。 だったら離れちゃおうか と、つまり離れて平気になりたい。だから断ち切ろうとするんだと思う。その 繋がりを。
    でも、果たして幸せなのか って言ったら、それは断ち切ってるわけだから それほどの孤独は無いと…。 それをドストエフスキーは、やっぱり繋がるしかないんだよ って言ってるんだとすれば、おれはそこにすごく共感する。」

亀山:「それなんです。それなんですよ。でね、断ち切って、その断ち切られることの孤独とか恐怖を経験してる段階ならね、まだ 救いがあるんですよ。 しかし、母親の記憶もない、母親の愛情の記憶もない、 としたら その人間は どこに行くことになりますか?」
太田:「――……」
亀山:「ぼくは それが今ね、ホントに確実に増えてると思うんですよ」
田中:「あぁ なるほどね」

亀山:「そして ドストエフスキー文学の最大のテーマっていうのが 黙過(もっか)っていうテーマだと思ってるんですね。
    黙過っていうのは要するに 黙って見過ごすこと。 誰が どこで 何が行われていようと 例えばそこでいじめがあろうと、誰かがそこで殺されようとしようが、どんなにかわいそうな人がいても、黙って見過ごしてしまうという。
    それを黙って見過ごすならばいいけども、他人の死を願望するというね、そこまで踏み込んだ黙過ってあると思うんですよ。」


『人間は悪いことを憎むとか みんな言ってるけど
 心のなかじゃ みんな悪いことが好きなのよ。
 …口では恐ろしいとか言いながら
 内心では もう 大喜びなの』
    ――“カラマーゾフの兄弟”


亀山:「それぐらい傲慢に構えている人間が そこに存在するんですよ。そういう人間がですね、やっぱりこの日本の中で 一人、また一人と増えていってるような気がして 仕方がないんですね。」

太田:「それもすごくわかるんですけど そこで じゃあその なんていうんですかね、母に帰らないと覚悟する ってのも おれは一つアリだと思うのね。この母とのつながりより、国家とのつながりみたいなのをプチンと切るというのは 圧倒的な孤独なんだけど、その孤独に耐えられずに 爆発しちゃうっていう 例が多いんだと思う。
    だけど 切るなら切るで、それを覚悟するべきだと思うのね。これの世界ったら とんでもない一生だぞ っていう こと 覚悟した上で、そこに踏み込むべきだと思う。 つまりだから重要なのは、そこに行く前の想像力だと思う。」
亀山:「じゃあ聞きたいんですけど、秋葉原の通り魔事件のあの青年の問題。 今 その 太田さんが 今 仰ったその文脈の中で、どのようにつながってきますか。」
太田:「あの青年?」

《VTR 秋葉原事件の映像》

『より たくさんのものに唾を吐きかけられる人間だけが、やつらの立法者になれるんだ。
 だれよりも正しいのは、だれよりもたくさんのことを思いきってやれる人間だけさ!』
    ――“罪と罰”

亀山:「あの青年を裁けますか 法が」
太田:「ま 例えばその秋葉原の犯人なんかは、あるイミで言うと、これ 言い方に語弊があるかもしれないけれど、彼なりの 社会とのコミュニケーションだったと思う。つながろうとして 刃物を振り回した。
    …ところが逆に言やあ、それはつながる行為では無い っていうことに気付かないわけだけども。」
亀山:「でもね、確かに つながろう という根本的な衝動はあったかもしれない。 でも同時に彼は 全能感に浸ってませんでしたか」

太田:「そうかもしれない。だから それは自分は特別だ っていう意識  …それに対する罰 っていうかね 彼が受けるべきものっていうのは あまりにも陳腐だって思い知るしかないことだと思うんですよ。要するに 全然特別じゃないってことを。
    それはそれこそ ドストエフスキーかなんかを じゃあ彼が読んだときに、あ、もう 既に 何百年も前にこんなこと書かれてると。 つまり表現の中では こんなのもう基本中の基本だったんだ と。 それを裁くのは やっぱり表現者だと思うんですよね。コテンパンに打ちのめすのが ドストエフスキーのような あの 天才たちの仕事を彼に見せつけるしかないと思う。」
亀山:「そうだね。」

太田:「だからそれを やっぱり今の若い人たちが早い時期に…。」
亀山:「しかし それが保障されてない…ですよね。ことによると。
    その 天才は まさに彼に対して、いかに君のやったことは陳腐かってことを 思い知らせ、見せつけるべきだ って今、おっしゃったけれども、ぼくもそうだと思うんです。 でも そのチャンスがあるのかどうか っていう問題ですね。」
太田:「チャンス?」
亀山:「チャンス。」

太田:「チャンスは先生が作ってるじゃない さんざん…」
太田・田中:「「100万部 売って。」」
太田:「さんざん作ってるんじゃないですか。それは大きいと思いますよ やっぱり。 どれだけ目に触れるか っていうことは それを知ってたのと知らないのとでは全然違うでしょう それは。」

太田:「これ、ロシアね、全然触れる機会 無いじゃないですか。だけど よくよく考えてみると、タルコフスキーの映画は好き…」

  アンドレイ・タルコフスキー
    旧ソ連を代表する映画監督

太田:「すごく 癒され… 癒されるっていう言葉はあんまり好きじゃないけども。安心する。で、例えば、ドストエフスキーなんかも、そんなにギャップがない。…そういう日本人とね。 すごく割と近いんじゃないかなって気がするの。 ロシアとかソ連のあの雰囲気ね。」

亀山:「そうですね。 何故かロシア人と日本人が近いと感じられるかが謎なんですね。それはね ことによると 日本人がもう失ってるのかな って思うくらいに、その目に見えない 柔らかい力 それをロシアの人たち 今も持っている気がするんですね。」

太田:「ある種ね、ぼく 日本人として 子どもの頃から…昭和40年生まれなんでね そうすると まぁ、アメリカの文化が、もう ガーッと入ってきてる中の、それが定着した中で育ってきているわけですよね。そうすると、子どもの頃 思い描いた未来像、21世紀の未来像っていうと まぁ手塚治虫さんの描く ビルがパーッとあって、チューブの…エアカーが走ってて…。」

―劇場版 手塚アトム『宇宙の勇者』―

太田:「それは要するに アメリカとかのあぁいった自由諸国の西側の文明が発展した先の未来像じゃないですか。 タルコフスキーっていうのは、あの やっぱりSFなんだけど、そこにある未来像って、荒野なんですよね。荒野で 水が流れていて、でも人々は暗い顔して う~ん ってやってるんだけど、自然はすごい美しい…。」

 『惑星ソラリス』(1972)
  宇宙SF映画の傑作。
  そこに描かれた未来像は衝撃を与えた。

太田:「もしかしたら ちょっと 子どもの頃 描いた無邪気な未来っていう…あっけらかんとした未来とは ちょっと違う…じゃないかな。っていう ふうのことを、みんながだんだん、なんか…」
田中:「なりましたね。」
亀山:「共有し始めた。」
太田:「ねぇ。」

田中:「確実に今の子どもたちは あの未来じゃなくて、もう 緑の多い未来図をたぶん描きますね。」
太田:「そうでしょうね。」
亀山:「それ面白いですね。」

太田:「そうすると、だんだん、まぁ もちろんその 西と東の駆け引き、戦いだったんだけど、一見 東が敗れたように見えるんだけど、実はこっちにも 要するにもう 賞味期限が…っていうか疲労がきてて、逆に今の若い連中は その ロシア文学やなんかに惹かれるっていうのは そっち… 否定できない 何かそういう思いがあるような、うっすらとその根底に」
亀山:「おっしゃるように こう 緑が豊かに生い茂る大地を未来のイメージとして思い浮かべるというふうに…もし 思い浮かべるとしたら、ロシアってまさに大地そのものの空間で その大地そのものが豊かになるような社会が やっぱり未来なんだ。 それが共有できるって本当に素晴らしいことだなって思いますね。」

田中:「ま、我々の感覚と そのやっぱりロシアの人にとっての、いわゆる大地っていう感覚って、やっぱり違うと思うんですけど。」
亀山:「確かに 目の前に本当にこの無限の大地が広がるっていう感覚って 我々 なかなか経験できないですよね。で、だから やはり 大地ってのは目の前にある というよりも、頭の中なんじゃないかな。
    つまりその 一人一人の人間の中にある大地のイメージっていうのが、それが大事なのであって、しかもその大事というのは その大地に対して自分の心をね、なんかこう開くってことしないと やはりその、大地って何の意味もないと思うんですね。
    自分が苦しんだり、悩んだり、そういう果てにね、何かどっかに帰らなければいけない。さっきその 行くべき場所がないって そういう状況があるっていうのだけども その行くべき場所っていうものに何かこう 大地っていうものが重なったとき、初めてその 大地が意味を持つものだと思うんですよ。」

太田:「あの、そういう意味で言うと、さっき どこに帰るのかっていう…。人間っていうのは、生まれたときからすごく 実は2つ 矛盾していて、生き 生きていこう。つまりだから何が言いたいかっていうと…
    …おれも酔っ払ってるから 何言ってるかわかんないけど」
田中:「ほんとだよ。」
亀山:(笑)

太田:「何が言いたいかっていうと、自分を救うのは他人じゃない。つまり先生が言った その 記憶の中の大地」
田中:「頭の中にある…」
太田:「十分なんですよ。自分の中にあれば。自分を救うのは やっぱ 自分でしかない。母に救われたい なんに救われたい あるだろうけど、記憶ですよ やっぱり。」

亀山:「記憶かもしれないね つまり それが力となって ね。新しい生命をね 生まないとダメなんですよね。」

『あなたの大地にキスをしたとき
 新しいページは 開かれる。』

ドストエフスキーの最後の作品
『カラマーゾフの兄弟』のエピローグで、主人公 アリョーシャは叫ぶ。
「もしも、自分たちの心に、
 たとえひとつでも よい思い出が残っていれば、
 いつかは それがぼくらを救ってくれるのです。」

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 
なかなか面白かったです。

時間がかかってしまいましたが、この回はテキストに起こしておきたかったので。

過去の放送回としては、“FILE049:「愛の政治学入門」”に通じる部分があると思いますが。

“願望した本人は、どこまで罪を問われるべきなのか”
っていうところ。
これ、冗談でも「死ねwww」とかって言葉を使う時、嘲笑的な意味を孕む時とかも、どこまで問うんでしょうかね。
あとは、“「死ね」じゃなくて「消えろ」”ってコトとか。言葉を残酷な方に置き換えると、“「勝手に死んでほしい」”とか。

“愛”の反対は“無関心”って言いますけど、対象の存在に対して、“『私』に関心を抱かせないでほしい” っていうかね。

広漠たる大地に誰もが立って、誰もが取捨選択を“自由に”出来るようになった。 捨てたものは無かったコトとされて、責任すら意味も無く…?

もうひとつ、キーワードとしては、“自分”と“ほか”との“つながり”。
これはもうブログでは何回か取り上げてますが、『自分が正当に扱われてないことが不服である』これに対しての行為。
大切にされたいし、大切にしたい。けど、大切にしてくれないじゃないか! という。
“つながり”の渇望。

そして、この回ならではの視点は、『過去に それを描いた表現者がいる』ことについて。
「100万部売って――。」という言葉がありましたけど、読まない人は読まないんですよね。…申し訳ない話なんですが、私も読んでません。m(__)m 
まぁ、こうして、テレビで…テレビじゃなくてもいいけど、 そういう創作物に触れる機会があればね、いいんですけど。…私もこの回でドストエフスキーに興味を持った次第なので。(…遅いんですけどね……。)

ま、『天は自らを助くるものを助く』。というわけで。
自棄的になり、乱暴な方法で“つながり”を求める前に、自分がどう在りたいか、シミュレーション立てること。過去にシミュレーション立てた人はどうか? など、模索してみるとかね。
そうすれば、“広漠たる大地”そのものが大切になるんでしょうね。

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